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【南十字星の下に散華せる 嗚呼戰友】長野縣護国神社のニューギニア戦線慰霊碑

美須々の交差点側の鳥居から、長野県護国神社の参道へ入ると、真っ先に目に飛び込んでくるのが、この『南十字星の下に散華せる 嗚呼戰友』碑です。

今回は、こちらの石碑について解説していきたいと思います。

◾️南十字星とは?

南半球の夜空に見られる十字形の星座で、パプアニューギニアでは各地から観測できます。そしてこの星、日本本島からは一切見ることはできないんです。

沖縄からでも、12月下旬〜6月頃までという、約半年間しか見ることができない、まさに南国の風物詩的存在の星なのです。

◾️南十字星の下で行われた悲劇

先の大戦では、1942年から終戦まで、日本軍と連合国軍による「ニューギニアの戦い」が繰り広げられました。

この戦いは非常に苛烈で、「死んでも帰れない戦場」とまで呼ばれていました。

なお、漫画家の水木しげる氏もこの戦いに従軍していたことで知られています。

開戦当初、日本軍はトラック諸島の海軍基地防衛のため、オーストラリア統治下にあったパプアニューギニアへの進攻を進め、米豪間の連絡遮断を図りました。

しかし当時のニューギニアは未開発地域が多く、双方とも熱帯のジャングルの中で過酷な戦闘を強いられます。

日本軍は短期決戦を想定していたため補給が十分ではなく、食糧の確保にも苦しみました。

一方、連合国軍は豊富な物資に支えられており、戦況は次第に連合国側へと傾いていきます。

また、この戦線では航空戦力が大きな鍵を握り、日本軍は制空権の喪失によってさらに厳しい状況へ追い込まれていきました。

そのような状況の中、兵士たちはマラリアや赤痢、腸チフス、デング熱といった感染症、そして飢餓にも苦しめられていったのです。

◾️戦いのあと

この戦いでは、戦闘よりも病や飢餓による犠牲者が多かったとされ、日本軍約20万人のうち、生還できたのは約2万人といわれています。

また、日本人に限らず、台湾原住民の高砂族や朝鮮人志願兵、インド人・インドネシア人など、多くの人々が日本軍として戦ったことも忘れてはなりません。

そしてこの石碑の背後の小道には、

ニューギニア戦線に従事した長野県出身の戦没者の名が刻まれた、別の石碑を見ることができます。

長野県から出征し戦没した兵士は3,474柱にのぼり、六面ある区画のうち、帰還された方々の名が刻まれているのは、たった一面のみでした。

その事実からも、この戦いの苛烈さを物語っているように感じます。

「散華」……

本来は仏教用語ですが、太平洋戦争においては、「散り落ちる桜のように、国のために命を捧げる」という意味で用いられていました。

ニューギニア戦線に従事した兵士たちの精神を尊び、そして弔う気持ちを、

文字としてこの石碑に刻んだのかもしれません。

日本から5000km以上離れた、南十字星が輝く空の下。

ニューギニアには今なお、多くのご遺骨が帰還できずに眠っています。

しかし現在も、厚生労働省や民間団体の尽力により、遺骨収集と送還は続けられています。

国のために尽力し、静かに迎えを心待つ兵士たちと、

彼らを迎えるために、暑い空の下で尽力している人々。

この石碑の前に立つと、

そんな彼らを思わずにはいられません。