
以前、東京・新宿にある『帰還者たちの記憶ミュージアム』へ行ってきたというノートを書きましたが、
なんと長野県塩尻市でも、こちらの出張展示会が行われていたので、先日行ってまいりました!
『帰還者たちの記憶ミュージアム』とは?
東京都新宿区の新宿住友ビル31階にて、入場無料で公開されている戦争史資料館です。
常設展示の内容は主に、戦中から戦後にかけてのシベリア抑留に関する記録や、実物資料、レプリカなどですが、
資料館へ足を運ぶ機会の少ない地域の方々に向けて、所蔵している資料や写真などを日本各地で展示する「館外展」も開催しています。
その館外展が、今回は私の地元からもとても近い、塩尻市広丘の「えんてらす」で開催されていました。
展示は、1階の会議室前の通路の両側と、階段を上がった先にある2階の勉強スペースに設けられており、そちらを鑑賞してきました。
今回は、その記録を綴ります(о´∀`о)
新宿区の『帰還者たちの記憶ミュージアム』についての詳細や体験談は、↓のノートで投稿しています。よろしければこちらもお読みください(^ ^)↓
1階(広丘公民館 101・102会議室前の通路)
今回は、シベリア抑留を経験した帰還者や、抑留を経験した家族の話をもとに描かれた絵画を中心とした展示会でした。
絵画や資料がボードに掛けられた、簡易的な展示ではありましたが、
常設展示のある新宿住友ビルでは展示されていないものばかりで、個人的にはとても新鮮に感じました。
通路に入って右側(会議室側)から見ていくと、時系列順に並んでいます。
まずは、1945年8月8日のソ連対日参戦・侵攻から始まります。
ソ連対日参戦
ソ連侵攻は、日本にとって寝耳に水……ではありませんでした。
もちろん、多くの国民や、前線にいた兵士たちには、ソ連が侵攻してくることを知らされていませんでした。
というのも、日本は、ソ連が対日参戦を決定したヤルタ会談での取り決めについて、事前には知らされていなかったからです。
そのうえ、日本とソ連の間には、日露戦争後の対立を経て締結された「日ソ中立条約」がありました。
両国は少なくとも条約上は中立関係にあったため、多くの日本人にとって、ソ連が突然侵攻してくるとは考えにくい状況だったのです。
しかし、当時の日本政府や軍の上層部では、ソ連が参戦する可能性をある程度察知していました。
それにもかかわらず、国防上の理由などから、満州やソ連との国境付近に配属されていた多くの日本兵や、開拓団として渡っていた日本人移民たちには、十分な情報が伝えられないまま、現地からの撤収も進められませんでした。
これが、今回の展示にも描かれている「ソ連侵攻」や、満州開拓団の悲劇へとつながっていきます。

こちら右下の絵画のタイトル『磨刀石(まとうせき)』とは、ソ連と満州の国境付近、満州東部にあった地名です。
そこで繰り広げられた日ソ両軍の苛烈な戦いは、「磨刀石の戦い」と呼ばれています。
ソ連軍の急な侵攻に対し、物資も不足していた日本軍は、急きょ蛸壺壕(たこつぼごう)を掘るなどして応戦しました。
しかし、兵力・物資ともに勝るソ連軍を相手に、日本兵たちは苦戦を強いられます。
中には、爆弾を抱えて突撃する「肉攻」をする兵士たちの姿も描かれています。
武装解除

ポツダム宣言の受諾に踏み切れずにいた日本政府も、ソ連の対日参戦と長崎への原子爆弾投下を受け、ついにポツダム宣言の受諾を決定します。
しかし、終戦間際に始まったソ連の対日参戦は、日本が終戦を決定した8月15日以降も続きました。
前線に配置されていた日本兵たちは、祖国が戦争を終えたことを知らないまま、終わりの見えない戦いを強いられることになったのです。その背景には、複雑な事情がありました。
満州国境を警備していた関東軍の中には、ソ連軍の侵攻を察知すると、台湾や日本本土などへ帰還し、現地にいた満蒙開拓団や日本人を残していった部隊もありました。
また、8月15日の終戦が大陸にいた日本人たちへすぐには伝わらず、現地の指揮系統が混乱したことで戦闘が続き、その中で命を落とした日本人も少なくありませんでした。
やがて大陸でも、日本軍の武装解除が進められます。
日本軍は兵器や物資をソ連軍へ引き渡し、自らも武装を解いて、ソ連軍の管理下に入ることになりました。
展示されている絵画には、いずれも、武装を解かれ、不本意そうな表情を浮かべる日本兵たちの姿が描かれています。
展示された絵画には、佐藤清氏が作成されたものが多く見られます。
この方は、終戦直前のソ連参戦や、抑留の記憶を生涯伝え続けた画家です。
佐藤清とは
佐藤氏は1925年に生誕し、1944年に陸軍の召集により満州へ渡った後、
幹部候補生となって石頭予備士官学校へ入校、
そこでソ連軍の侵攻に遭われました。
そして終戦後は、ソ連軍によってシベリアのフルムリ地区へ連行・抑留された経験があります。
1947年末に日本へ帰還すると、数年間に渡る病気療養の後に、武蔵野美術学校(現・武蔵野美術大学)で西洋画を学ばれました。
そして建築士として働く傍ら、数多くの絵と文で、自身の体験を描き残した方です。
佐藤氏は、残念ながら2014年に亡くなられましたが、その作品の数々は現在でも私たちに、抑留の過酷さを伝えています。
佐藤氏の繊細なスケッチも、建築士としての側面も見れて大好きなのですが、
個人的に、好きなタッチの絵画……上河邉長(かみこうべ おさ・1925年〜2006年。約1年8か月の抑留生活を経験)さんの『武装解除という名の追いはぎ』です。
まず、絵柄が可愛らしい!
やはり戦争を題材にした絵画というと、作者にも鑑賞者にも、リアルな画風が求められる傾向があると思うのですが、
個人的には、こうしたマンガタッチの絵柄も好きです。こういう表現だからこそ、そこに描かれた人々の人間味が、より身近に感じられる気がします。

絵画の中央や、右下にいるソ連兵を見てください。
腕時計を3つも4つも身につけている上に、さらに日本兵のベルトや上着まで求めています。
この時、ソ連にとって珍しく、価値のあるものは、次々と取り上げられていったのだそうです。
実はこの時、ソ連もドイツとの長い戦争を終えたばかりでした。
ソ連では民間人も答めて2,600~2,700万人もの人々が亡くなっており、国は荒れ果て、経済が天混乱に陥るなどの大きな被害を受けていたのです。
こうした戦災からの復興や、将菜起こるであろうアメリカとの軍拡競争(冷戦)のため、
ソ連は戦争で失われた労働力の穴理めとして、ドイツと、そして同盟関係であった日本を強制労働の対象としました。
だからといって、ソ連による略奪や非戦闘員の虐殺を擁護するつもりは一切ありませんが、こうした出来事を知る際には、日本側だけでなく、当時の世界情勢も含めて知っておくことも重要なのではないかと思います。
そして私が、今回の展示会で、目にして驚いたもの……それは、「国家防衛委員会決議9898号」のレプリカ展示です。

これは、ソ連が1945年8月23日付で、日本人の抑留を決定した議決書です。
右下には、最高指導者・スターリンのサインがありますね。
多くの日本人の人生を大きく変えることになった、一枚の文書。
ちなみに原本は、ロシアの国立社会・政治史公文書館に所蔵されているそうです。
抑留へ

こうして武装解除を終え、ソ連軍に降伏した日本兵たちは、当初、「ダモイ・トーキョー」と言われて移動を命じられました。意味は、「東京へ帰す」というものです。
実は、日本が受諾したポツダム宣言に基づいて作成された「降伏文書」には、武装解除された日本軍兵士を日本へ復員させることを前提とした規定がありました。
しかしソ連は、こうした取り決めに反して、日本兵たちの抑留を決行します。
一方、「故郷に帰れる」と信じた日本兵たちは、徒歩や鉄道、船などでソ連兵に言われるまま移動しました。
ところが、たどり着いた先は日本ではなく、ソ連やモンゴル各地の収容所でした。
そこで待ち受けていたのは、非常に過酷な抑留生活でした。
一般的に「シベリア抑留」と呼ばれるこの出来事ですが、
その抑留先はシベリアだけではありません。
ヨーロッパ、ウクライナ、カザフスタン、モンゴル、さらには北極圏など、ユーラシア大陸の広い範囲に及びました。
これらの地域の多くは、当時ソビエト連邦の構成共和国や、その勢力下に置かれていた地域です。
また、ソ連軍の侵攻は日本の樺太・千島にも及び、その中では『占守島の戦い』も発生しています。
そのため、終戦後も樺太や千島に残され、そのまま労働に従事させられた人々がいた一方、病気などを理由に、ソ連から満州や朝鮮北部へ移送された人々もいたようです。
そして、抑留されたのは軍人だけではありません。
満州へ渡っていた民間人の中にも、ソ連軍によって連行・抑留された人々が数多くいました。

「ラーゲリ」とは、ロシア語で「収容所」を意味します。
その形状はさまざまで、木造やレンガ造りの建物、半地下の施設、テントなどがあり、中には抑留者たち自身が建設したものもあったようです。
しかし、その多くは冷たい隙間風が入り込むほど粗末で、不衛生な環境でした。
シラミや南京虫などの吸血性の害虫も発生し、そこから発疹チフスなどの伝染病が流行するなど、抑留者たちをさらに苦しめました。
さらに、収容所の周囲には有刺鉄線が張り巡らされ、機関銃を持ったソ連兵による監視も行われていました。
そのため、抑留者が収容所から脱走することは、極めて困難だったそうです。
2階の小スペース
展示は階段を上がった先の小さなスペースにもありました。
当日は夏休みだったからか、学生さんが多く勉強をしており、反射も考慮してあまり写真を撮れていません(汗)
また、公式サイトでは「2階アルプスホール」でも展示が行われていたようなのですが、
どこだかわからず、利用者も多かったため断念しました……

抑留生活も後期に入ると、ソ連側も食料を増量するようになりましたが、
初期の頃は食事も乏しく、過酷な環境や労働に見合うものではありませんでした。
あまりの空腹から、蛇やネズミを食べる抑留者もいたそうです。
なお、新宿の常設展示では、
空腹をしのぐため、他の抑留者と両袖を交換したという服の実物も展示されています。
斉藤邦雄とは
戦争と抑留を経験した後、「コトバだけでは伝えにくい戦争や抑留を、分かりやすいマンガにしたい」と、漫画家として再び歩み始めた人物です。
大正9年(1920年)、群馬県藤岡市に生まれました。
斉藤氏は映画制作会社「東宝」に勤務していましたが、在職中の昭和16年(1941年)に召集を受け出征。兵士として中国で約5年間の軍隊生活を送った後、
終戦後の昭和20年(1945年)10月、シベリアへ抑留され、約3年間に4か所のラーゲリ(収容所)を転々としました。
昭和23年(1948年)7月に復員。
その後「東宝」を退社してフリーとなり、「東京児童漫画会」に所属。児童雑誌などで漫画を執筆しました。
平成25年(2013年)、死去。
帰還へ
1950年(昭和25年)4月。
ソ連は、「抑留者の帰還はすべて完了し、残っているのは戦争犯罪人とその容疑者、そして移動に耐えられない重病人だけだ」と一方的に発表しました。
この時点でソ連に残されていたのは、日本軍や政府の高官、ソ連に対するスパイ活動や細菌・化学兵器に関わったとされた人々など、約4千人。
そのうち約1千人は、同年7月に中国へ送られました。
なお、ソ連による取り調べや裁判は一方的かつ不法なものも多く、長期抑留者の中には、本来であれば罪に問われるはずのない人々も含まれていました。
その後もソ連に残された約3千人の人々は、「長期抑留者」と呼ばれています。
ソ連は、この長期抑留者を日本との国交回復における交渉材料として利用しました。
そして1956年(昭和31年)12月に発効した日ソ共同宣言によって、ソ連に残されていた日本人の釈放・帰還が進められることとなります。
同時に、日本とソ連は、戦争によって生じた相互の請求権を放棄することにも合意しました。
これにより、日本はソ連に対して、戦争や抑留による損害について賠償を求めることができなくなりました。
一方、戦後の1951年(昭和26年)には、サンフランシスコ平和条約が締結され、日本は「千島列島」に対する権利、権原及び請求権を放棄しています。
ただし、ここでいう「千島列島」には、現在日本が「北方領土」と呼んでいる択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島は含まれていません。
しかし、ソ連・ロシア側は、これら4島も千島列島に含まれるとし、第二次世界大戦の結果としてソ連が取得した領土である、という立場を取っています。
これが、現在に至るまで続く「北方領土問題」の大きな背景の一つです。
帰還後の絵画『只今帰りました』

こちらの絵は非常に興味深いと思い、
撮影後もしばらく眺めながら考察していました。
描かれているのは、過酷な抑留生活を終えて帰還した兵士を、家族や地域の人々が出迎えているワンシーンです。
一見すると、心温まる感動的な場面。ところが、よく見てみると……
帰還した男性の背後、絵画右下には、白いスーツにハット姿の男性が立っています。
どうやら公安警察のようで、なんだか穏やかではありません。
私はこの絵を見て、
「帰還した抑留者の中に、ソ連の影響を受けた人物や、ソ連側の協力者が紛れ込んでいないかを、GHQや日本政府の依頼を受けた公安警察が監視していたことを描いているのではないか?」と考えました。
実際、シベリア抑留中の日本人の中には、ソ連による思想教育などの影響を受け、共産主義に傾倒した人々もいました。
一方、当時の日本はアメリカを中心とする連合国の占領下にあり、戦後まもなくアメリカとソ連は冷戦へと突入していきます。
そう考えると、帰国した抑留者の中に、ソ連側から何らかの影響を受けた人物や、スパイ活動に関与する人物がいないかを、
日本側が警戒・監視していたとしても不思議ではありません。
……と、そこまで考えて、ネットで答えを探してみました。
どうやら私の考察、意外といい線までいっていたようです(笑)
シベリア抑留からの帰還者の中には、
引揚者約240人が日本共産党に入党したほか、
早期の帰国を望むあまり、ソ連に忠誠を誓い、当局へのスパイ活動を約束したうえで日本へ帰還した「幻兵団」と呼ばれる人々がいたことを、自ら語った記録も残されています。
早田貫一とは
シベリア抑留の体験者で、帰国後は高校教師として教鞭を執られた方です。
1921年(大正10年)、佐賀県小城町に生まれました。
1943年(昭和18年)11月、早稲田大学英文科に在学中、学徒出陣により徴集されます。
1945年(昭和20年)8月、琿春で終戦を迎え、その後、ソ連のハバロフスク地方コムソモリスクへ抑留されました。
約3年間の抑留生活を経て、1948年(昭和23年)7月、舞鶴へ復員。
帰国後は秋田県などで高校の英語教師として勤務するかたわら、1970年(昭和45年)頃から日曜画家として絵を描き始めました。
そして、自身の抑留体験をもとに、多くの水彩画を描き残しています。
1991年(平成3年)から1994年(平成6年)にかけては、秋田県生涯学習センターの水彩画講師としても勤務。
2011年(平成23年)に逝去。享年90でした。
(出典:平和祈念展 in 秋田「高校教師・早田貫一が描くシベリア抑留」–
特に私は、公安警察のスーツが白い理由が気になりました。
監視する側の人間なら、普通はもっと目立たない服装を選びそうなものなのに、
この人物は全身が真っ白なスーツという、周囲から浮くほど目立つ姿をしています。
帰還者たちの中に紛れ込んだ、共産主義の「赤」を監視する存在として、
あえて白く描かれているのではないか……なんてことまで考えてしまいました (´∀`;)
作者がそこまで意図していたのかは、私には分かりませんが、そう考えてこの人物を見ると、なんだか妙に意味深に見えてきます。
終わりに
今年3月に新宿の常設展示を訪れたこともあり、そこに展示されていたものは記憶に新しかったのですが、
今回メインで展示されていた「抑留者による絵画」は常設展示にはなかったもので、見ていてとても新鮮でした。
何より驚いたのは、抑留された方々の中に、これほど絵の上手な方が多かったことです。
そして、その一枚一枚の作品からは、彼らが過ごした日々がどれほど過酷なものだったのか、
そして戦争というものが、どれほど多くの人々を苦しめ、不幸にするものなのかが、伝わってくるようでした。
こうした「戦争絵画」は、時として写真以上に鮮明に、鑑賞者の心へ直接訴えかけてくるように感じます。
それはきっと、そこに描かれているものが、作者自身が実際に目にした「世界」だからなのだと思います。
長野県は、全国でも最多となる満州開拓移民を送り出した歴史があります。
その中には、大陸の地で命を落とした人もいれば、戦後に抑留を経験した人も数多くいました。
今の私たちが生きるこの時代も、すべて過去へとつながっています。
当時を生きた人々が、私たちに伝えたかったこと。
世界情勢が大きく揺れ動き、再び大きな転換点を迎えているようにも感じられる今だからこそ、
私たちは彼らが残した声に、もう一度耳を傾ける必要があるのではないでしょうか。