下平肭四先生の生涯 ― 政治家という峠

※本記事は著書『超えても超えても峠あり』の内容をもとに執筆し、
後から裏付け調査を行なっております。

※本記事は、下平肭四先生の著書のページ構成に沿って執筆しているため、
出来事の時系列が前後する箇所があります。
ただし、目次の年表から各項目へ移動した場合は、該当する章へジャンプできるよう設定しています。

1929年…県会議員の補欠選挙に初当選

昭和4年4月。
下平先生は、長野県会議員の補欠選挙へ立候補し、初当選を果たしました。

元来、政治があまり好きではなかったという先生ですが、
当時県会議員を務めていた方が亡くなられ、その補欠選挙に周囲から出馬を勧められたことがきっかけで、立候補を決意したのだといいます。

先生は当時36歳で、最年少だったそうです。

 

1935年…“文明社長”の異名

昭和10年(1935年)6月。まだラジオが一般家庭にほとんど普及していなかった時代、
下平先生は、上伊那で最初にラジオを購入した人物だったそうです。

また、工場の作業効率を高めるため、「人が歩き回らなくても用事が済むように」と考え、
工場内すべての作業場へ電話を設置し、電話交換台も導入しました。
これにより、社内の連絡や打ち合わせを電話で行える体制を整えたのです。

当時の高木館下平製糸は、女工約600人を抱える大工場でした。
規模は上伊那で2番目、片倉製糸を除けば地域最大の製糸工場だったそうです。

さらに先生は、電話交換台に続いて放送室も設置。
各工場へ音楽を流したり、全従業員への連絡や訓示を一斉放送できるようにしました。

こうした設備は、この地方ではいずれも初めての試みだったそうです。その結果、先生は従業員から「文明社長」というニックネームで呼ばれるようになったそうです(笑)

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