
下平肭四とは、長野県上伊那郡箕輪町で生まれ、小学校教員として勤めた後、叔父の製糸工場を継ぎ、その後は数々の会社の設立や継承に携わり、伊那谷の土地開発や地域発展にも尽力するなど、非常に多くの功績を残された人物です。
私が下平肭四先生を調べようと思ったきっかけは、
伊那市春日公園で偶然お見かけした顕彰碑の存在でした。
自分が生まれるずっと前に、自分が育った伊那谷の発展に寄与した人物がいた。
思い出の多い伊那谷の発展に、貢献した人物との出会いにご縁を感じながら、
その足跡があまり残されていないことに疑問を抱き、私は個人で先生の生涯を追ってみることにしました。
(なお、本研究の動機や調査の経緯については、下記のページにまとめています)
史実検証を主目的とはせず、まずは下平先生がご自身の半生をどのように語り残されたのかを、ひとりの読者として楽しく学ばせていただくことにしました。
個人研究の限界
自伝という性質上、そこには著者自身の主観や記憶が含まれている可能性がありますが、
本記事では基本的に著書の記述に沿って内容をご紹介いたします。
・参考資料が1つのみ
下平肭四先生については、現代までに残された資料のうち、私が確認できたものが非常に少なく、その生涯を追うにあたって使用した資料は、
先生ご本人が執筆された著書『超えても超えても峠あり』(一代記)のみです。
そして2026年6月25日現在、本書以外に私が閲覧可能な資料は確認できておりません。
また、私は歴史の専門家ではなく、歴史学を専門的に学んだ経歴もありません。
そのため、本研究は一個人による調査であり、出典として『超えても超えても峠あり』のみを用いております。
史実との間に当時の社会情勢や歴史的背景、解釈の違いや補足が必要な部分もあるかもしれませんが、その点をご承知おきいただければ幸いです。
・後日の加筆修正について
したがって本研究は、公開時点で完成版ではありません。
詳細な裏付け調査や事実確認については今後の課題とし、まずは本書の内容を整理・紹介することを目的として公開しております。
将来的に新たな資料や情報が確認できた場合には、内容の検証や補足などを行い、適宜加筆・修正してまいります。
なお、大きな修正を行った際には、修正日も併せて記載する予定です。
・研究に必要と判断したエピソードのみを掲載
本著書は、一代記という性質上、下平肭四先生の半生が、
ときに日記のように、ときに喜劇のような筆致で綴られています。
そのため、本記事では、師範学校時代の図画試験の替え玉作戦や、町政に不満を持った人物との抜刀事件など、一部のエピソードについては割愛、または要点のみの引用としています。
これは、本記事の主目的を
・下平肭四という人物が伊那谷へどのような功績を残したのか
・伊那谷の歴史や変遷をたどること
に置いているためです。
また、著作権に配慮し、研究目的に必要な範囲で引用・紹介しています。
なお、本記事は公開後も、資料の追加調査や新たな知見に応じて、内容の見直し・加筆修正を随時行っています。
下平先生の生涯をより詳しく知りたい方は、ぜひ著書『越えても越えても峠あり』をご覧ください。
本書は先生が生前、知人や希望者へ贈呈された非売品で、現在もほとんど流通していませんが、長野県内の図書館などで所蔵されています。
「信州ブックサーチ」から所蔵館を検索できます。
・お名前の表記について

下平肭四先生のお名前に使用されている「肭」の漢字について、本来の表記は著書表紙画像のように、「月」に「丙」です。
しかし、この文字はパソコン環境では表示できない文字のようで、
本研究では便宜上、表示可能な近似文字「肭」と表示しております。あらかじめご了承ください。
以上の点をご理解いただいたうえで、
私とともに下平先生の波乱万丈な半生を追っていただければ幸いです。
さて、このページではまず、
先生の半生を年表形式でまとめ、これを目次として掲載するとともに、
一代記『越えても越えても峠あり』が執筆された経緯についてもご紹介したいと思います。
下平肭四先生の人生年表
以下が、私が著書を読みながら可能な限りまとめた、先生の人生年表です。
・黒文字:出来事
・青文字:表彰
文字リンクのある項目については、著書の内容をもとにノートとしてまとめています。
リンクを押すと、該当記事に飛べます!
なお、本研究は現在も継続中のため、
記事の内容は不定期に加筆・修正を行う場合があります。あらかじめご了承ください。
| 年月日 | 出来事 |
| 明治27年7月5日 | 生誕 |
| 明治42年3月24日 | 南箕輪尋常小学校 卒業 |
| 明治45年3月20日 | 長野県師範学校教員養成所(小学校訓導) 卒業 |
| 明治45年4月1日 | 長野県上伊那郡村立南向小学校四徳分教場 教員 (~大正2年12月20日まで) |
| 大正3年1月5日 | 村立中箕輪小学校 教員(~大正5年4月1日まで) 木曽駒ヶ岳大量遭難事故に間接的に関与 突然の教員辞職 叔父の会社を飛び出し東京へ 無実の詐欺容疑で逮捕!? 大和組製糸工場へ勤務 |
| 大正4年4月20日 | 伊那市株式会社高木館下平製糸場 取締役社長 (~昭和16年3月31日まで、22年間) |
| 大正9年 | 南箕輪村御子柴に初めて自分の会社を建てる |
| 大正12年 | 関東大震災が発生 叔父の養子に入り、下平姓に 渋沢栄一と屏風バトル |
| 大正13年2月10日 | 長野県上伊那郡生糸同業組合長(~昭和16年4月10日まで、18年間) |
| 大正14年4月1日 | 伊那商工会 会長1回目(~昭和6年9月30日) |
| 大正14年9月 | 第二次世界大戦が勃発、先見の明で会社を立て直す |
| 大正15 年4月10日 | 長野県上伊那郡生糸同業組合評議会(~昭和16年4月10日まで、16年間) |
| 昭和3年3月1日 | 上伊那郡連合商工会 会長(昭和6年9月30日まで、4年間) 二宮神社を小田原本社から正式な分社として迎える |
| 昭和4年4月8日 | 長野県議会議員(~昭和6年9月20日まで、3年間) |
| 昭和6年4月1日 | 伊那商工会議所 顧問(~昭和30年3月31日まで、通計34年) |
| 〃 | 全国生糸同業組合連合会 代議員(~昭和19年6月30日まで、13年間) |
| 昭和8年4月20日 | 公認私立高木館製糸青年学校長(~昭和16年3月30日まで、9年間) |
| 昭和9年6月1日 | 全国生糸同業組合連合会 評議員(~昭和12年6月30日まで、7年間) |
| 昭和10年2月10日 | 上伊那養蚕業組合連合会 副会長(~昭和14年2月10日まで、5年間) 社員より”文明社長”の異名を授かる |
| 昭和12年3月30日 | 長野県伊那町(現・伊那市)会議員(~昭和13年9月17日まで、2年間) |
| 昭和12年4月20日 | 養蚕功労者として、閑院宮殿下大日本養蚕会総裁より功労賞 |
| 昭和12年5月11日 | 長野県伊那町(現・伊那市)町長(~昭和13年5月17日まで、2年間) 警察署の移転問題を解決へ |
| 昭和12年6月20日 | 日本赤十字長野県伊那支部伊那町 分会長(~昭和13年10月20日まで、2年間) |
| 昭和12年7月20日 | 愛國婦人会長野県支部伊那町分区 顧問(~昭和13年10月20日) 支那事変が勃発する |
| 昭和12年10月20日 | 長野県伊那職業紹介所 所長(内務省より/~昭和13年10月20日まで、2年間) |
| 昭和13年4月10日 | 日本赤十字社特別社員(となり今日に至る) |
| 昭和14年5月3日 | 厚労により、日赤総裁より日本赤十字社特別社員 第二次世界大戦が始まる |
| 昭和14年9月7日 | 長野県議会議員(~昭和30年4月20日まで、計20年) 選挙違反で逮捕され54日間投獄される |
| 昭和15年9月22日 | 伊那町長(2回目、~昭和16年12月22日まで) |
| 昭和15年10月20日 | 内閣より、紀元二千六百記念章 |
| 昭和19年5月20日 | 長野県森林組合連合会 副会長 兼 上伊那支部長(~昭和30年6月10日まで、12年間) |
| 昭和19年11月17日 | 長男の戦死 |
| 昭和22年2月19日 | 長野県財政調査委員(知事より/~昭和23年4月10日まで) |
| 昭和24年10月20日 | 長野県緑化連盟 上伊那支部長(昭和30年4月20日まで、7年間) |
| 昭和24年12月15日 | 河川総合開発委員(知事より/~昭和26年6月❓まで、3年間) |
| 昭和25年4月20日 | 天竜川漁業共同組合 理事長(~昭和28年8月30日まで、4年間) |
| 昭和26年1月10日 | 長野県養蚕業復興委員会 委員(知事より/~昭和30年4月まで、5年間) |
| 昭和26年4月10日 | 地方総合開発審議会 議員(内閣より/~昭和30年4月20日まで、4年) |
| 昭和26年10月9日 | 都市計画長野県地方審議会議員(知事より/~昭和28年8月10日まで、4年間) |
| 昭和26年12月14日 | 伊那土地改良区 理事長(創立より9年、理事長20年❓/~昭和28年7月15日まで、4年間) |
| 昭和27年4月1日 | 伊那商工会議所 会頭(2回目/~昭和30年3月31日まで、4年間) |
| 〃 | 上伊那商工会連合会 会長(~昭和30年3月31日まで、4年間) |
| 昭和27年4月10日 | 長野県伊那市 森林組合長(~昭和30年4月20日まで、3年間) |
| 昭和27年1月11日 | 天竜三河地方総合開発審議会 委員(建設大臣より/~昭和30年7月23日まで、4年間) |
| 昭和27年7月14日 | 長野県労働金庫運営委員会 委員(~昭和30年4月まで、4年間) |
| 昭和27年7月23日 | 財団法人長野県信用保証協会 理事(知事より/~昭和30年7月23日まで、4年間) |
| 昭和27年8月1日 | 長野県中小企業記入対策委員会 委員(~昭和30年8月1日まで、4年間) |
| 昭和27年12月26日 | 長野県市町村規模適正審議会 委員(知事より/~昭和39年4月1日まで、4年間) |
| 昭和28年4月1日 | 長野県議会 議長(1期2ヶ月❓/~昭和30年4月20日まで) |
| 昭和28年10月8日 | 県議会議員満15年以上務ムによる表彰状並びに記念品(全国議長会より) |
| 昭和28年12月22日 | 長野県町村合併審議会 委員長(知事より/~昭和30年4月30日まで) |
| 昭和29年1月1日 | 地方功労者として宮中に年賀式招待 |
| 昭和29年8月30日 | 長野いすゞ自動車株式会社 取締役 |
| 昭和30年1月1日 | 地方功労者として宮中に観菊式招待 |
| 昭和30年6月20日 | 長野県上伊那郡森林組合 組合長(~昭和34年7月20日まで、5年間) |
| 昭和30年7月20日 | 飯田市飯田自動車株式会社 取締役 |
| 昭和30年12月24日 | 長野県上伊那郡土地改良協会長(~昭和34年11月30日まで、5年間) |
| 昭和31年11月21日 | 町村合併審議会長として町村合併功労者表彰(自治庁長官 太田正孝より) |
| 昭和33年9月17日 | 伊那市伊那ガス株式会社 代表取締役会長(12年❓) |
| 昭和34年7月27日 | 伊那市伊那産業協同組合 理事長(11年) |
| 昭和35年6月10日 | 株式会社八十二銀行 参与(計10年) |
| 昭和36年4月1日 | 産業経済政治に長年の勤務と功績により、日本学士会より「名誉学士」❓ |
| 昭和36年6月24日 | 産業・経済・政治・文化等の功績者として、日本学士会より「アカデミア賞」 |
| 昭和36年9月1日 | 長野県プロパンガス協会 会長(計9年) |
| 昭和37年8月10日 | 長野県公営企業経営審議会 委員(知事より/8年間) |
| 昭和39年4月18日 | 地方自治の先駆者としての功績表彰(伊那市長より) |
| 昭和39年8月10日 | 長野県LPガス開発事業公社 理事長(6年) |
| 昭和39年11月3日 | 伊那日通ガス株式会社 代表取締役会長(6年❓) |
| 昭和40年4月1日 | 伊那商工会議所 会頭(3回目、通算17年) |
| 〃 | 長野県商工会議所連合会 幹事 |
| 〃 | 伊那郵便協力会 会長 |
| 昭和40年6月1日 | 長野県上伊那郡プロパンガス協同組合 理事長(5年) |
| 〃 | 上伊那郡プロパンガス協会 会長(5年) |
| 昭和40年7月1日 | 伊那法人会 会長 |
| 昭和40年9月1日 | 長野県上伊那郡連合法人会 会長 |
| 昭和41年5月3日 | 地方自治ならびに産業功労者として表彰(長野県知事より) |
| 昭和41年5月16日 | 地方自治ならびに産業功労者として勲五等旭日双光章を授けられる |
| 昭和42年6月5日 | 長野県伊那市特別職給与等審議会 委員 |
| 昭和42年8月5日 | 長野県特別職給与審議会 委員❓ |
| 昭和42年10月13日 | 裁判所各種調停委員として長年にわたり調停事務に功労アリタルの趣気によって表彰(長野県地方裁判所より) |
| 昭和43年5月20日 | 土地改良事業の功労者として表彰状と金杯を受く(長野県土地改良事業団長) |
〈年表が不明だった懸賞・役職等〉
・伊那油脂工業株式会社 社長
・県会 総務委員長
・長野県狩猟協会 会長
・伊那商業協同組合 理事長
〈家族構成〉
・下平 多加子(妻)
・下平 一(長男)
・下平 桂(次男・2004年12月2日に70歳で死去。長野県弁護士会副会長、田中康夫元知事の県政で、長野県都市計画審議会長や、 長野県人事委員会委員長を歴任)
著書執筆のきっかけと、タイトルの意味
この本は、下平肭四先生の”一代記”として、先生ご本人が生前中に執筆されました。
一代記とは、ある人物の誕生から死に至るまでの生涯や、その業績をまとめた記録・伝記のことを指します。(コトバンクより)
実際、本の内容もその通りで、
先生の「あえて波瀾万丈な道へ向かって行かれた」ようなエピソードが、
時に面白く、時にドキドキハラハラするような形で数多く綴られていました。
先生は以前から一代記の執筆を周囲から勧められていたそうですが、
「政治的、社会的に選挙に立ち、人々の投票を受ける立場にいる間は、一代記は自分の宣伝になる恐れがある」と考え、執筆を控えておられたそうです。
しかし、この著書を執筆された当時は、
「10個以上の事業団体の長を務めつつ、政界からは去り、今後もその立場に戻るつもりはない」ため、一代記の執筆に取り掛かられました。
先生は出版にあたり、
「自身の苦労を読んだ読者の、処世の役に立つかもしれない」、
「そして後世に、自分の艱難の実話を残しておきたい」、
そう考えられたそうです。
そんな「越えても越えても峠あり」というタイトルの意味ですが、
先生は自身の過去を「苦あれば楽あり」と考えていました。
人によっては、一生に一度も経験できないような苦難を、
先生は数多く経験してきたと書き残しています。
「一難去って、一難きたる」という言葉がありますが、先生の場合はそれが、
「十難去って、十難きたる」だったようで、
その大きすぎる、多すぎる”難”を、先生は「峠」と表現されたのでした。