下平肭四先生の生まれと教員時代

1916年…校長先生と大バトル!

大正5年。
肭四先生は、教案(授業計画)の作成を怠り、郡視学の視察で厳しく叱責されます。

当時は、郡視学が学校運営や教員人事にも大きな権限を持ち、教師たちから恐れられる存在でした。
他の教員たちは慌てて過去の教案を書き直して提出しましたが、
肭四先生は何も書かないまま教案簿を提出します。

翌日、校長から、「教案を作れと言ったのに、おまえだけ何もしなかった。不届き千万だ」
と厳しく叱られました。※

しかし肭四先生は、
「今さら作って、あたかも以前から準備していたように見せる方が嘘ではありませんか。本当の教師なら、正直に反省して改めるべきです」
と反論します。

議論は平行線のまま終わり、その日のうちに先生は辞表を提出しました。
理由を尋ねられると、

「校長先生は将来、教育界で大きな立場になる方でしょう。その方を『馬鹿野郎』と言ってしまった以上、私の出世は望めません」

と答えたといいます。そして最後に生徒たちへ、
「一生懸命勉強し、立派な人になれ。しかし、嘘をつく人間にはなるな」
と言い残し、教壇を去りました。

※…この時の校長先生について

前年の西駒ヶ岳遭難事故で赤羽長十校長が亡くなられたため、この時の中箕輪高等小学校の校長は後任の人物となっています。
著書では実名が記載されていますが、本記事では氏名の記載を控えています。

感想と考察

うーん……(^_^;)
このエピソードは、読んでいて「痛快!」というより、「……うん?」と戸惑ってしまいました。

というのも、この場面で肭四先生は、本来の問題とは別の論点へ話を展開しているように感じたからです。

校長は事前に「郡視学が来るので教案を作成・提出するように」と通達していました。
教案は教師として本来毎日作るべきものであり、肭四先生自身も「教案を作らず野球や庭球ばかりしていた」と著書に書き残しています。

また、「他にも教案を作らなかった先生はいた」と記していますが、それは全員ではなかったということでもあります。
実際に教案を仕上げて提出した先生もいたはずで、その人たちと比べれば、肭四先生の立場はかなり苦しかったのではないでしょうか。

それにもかかわらず先生は、「嘘をついて後から教案を作る方が悪い」と話を切り替えましたが、そもそも教案を作っておけば済んだ話ではないか、という結論にもなってしまいます。

この場面だけを見ると、自分の考えを最後まで押し通した肭四先生の”勝ち”だったのかもしれません。
まだ22歳という若さでもあり、血気盛んな一面が表れた出来事だったのでしょう。

一方で、先生が「このままでは自分は分教場勤務のままだ」と校長に語った懸念は、決して的外れではなかったとも思います。
事前に言われたことを守らず、後から開き直る教員を重要な役職へ就けるのは難しい――それは意地悪ではなく、学校を預かる立場として当然の判断なので、
教員を続けていたとしても、分教場勤務のままにされた可能性は高かったのではないでしょうか。

結局これで、肭四先生は教員という職を辞してしまいますが、その後の歩みを見ていくと、「教職よりも、実業家としての道が向いていた人物」だということがわかってきました。

次からは、先生が実業家の峠へと登り進んでいった軌跡を追っていきたいと思います。

 

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