
伊那市街地を一望できる高台に位置する春日城跡公園には、
かつて豪族・伊那部大和守重慶によって築かれた春日城がありました。
この城は、天正10年(1582年)の甲州征伐の際、織田信長の嫡男・織田信忠の軍勢によって攻められ、放火されて落城したと伝えられています。
それから城は再建はされず、現在は広々とした春日城跡公園として整備され、
県内でも有数の桜の名所として親しまれています。
私も学生時代、陸上大会や学校の帰りなどに何度も訪れた思い出の場所です。
引っ越してからは足を運ぶ機会がほとんどありませんでしたが、
先日、約10年ぶりに春日公園を訪れてみました。
久しぶりに歩いた春日公園で出会った慰霊碑や顕彰碑の記録について、
書き綴っていこうと思います。
春日公園に建つ、平和を願う2つの碑

2つの慰霊碑が建立されています。
春日公園では毎年、伊那地区戦没者追悼式が開催され、遺族会や関係者の方々が、この慰霊碑に手を合わせてこられました。
しかし近年では、会員数の減少や高齢化などにより、
春日公園での開催が難しくなっているようです。
(2024年には、福祉センターで開催されたニュース記事があります)
ご遺族や関係者の方々の思いが込められたこの場所で、私も静かに手を合わせさせていただきました。
鎮魂碑


伊那地区では、日清戦争から太平洋戦争までの戦没者と、
満州で犠牲になった方々がおよそ560名いるとされています。

こちらの「鎮魂碑」は遺族会によって建立されたもので、
背面には戦没者のお名前が出身地区ごとに刻まれています。
――80年前、この国は戦争をしていた。
そこでたくさんの人が戦い、そして命を落とした。
普段は漠然と、その事実を頭の中で理解していても、
こうして、自分がよく知る地名ごとに刻まれた名前を目の当たりにすると、
これほど多くの方々が実際に出征し、帰らぬ人となったのだという現実が、
胸に迫ってきます。
平和の礎

「平和の礎」は、終戦後も祖国へ帰ることができず、
シベリア抑留中に亡くなられた方々を追悼する碑です。
長野県は全国で最も多く満蒙開拓移民を送り出した県として知られています。
また、開拓団の入植地の多くが旧ソ連との国境付近にあったことから、
終戦時には多くの民間人が犠牲となり、シベリアなどへ連行されました。
シベリア抑留の経緯などについてはこちらの記事でも綴っておりますので、
よろしければこちらもお読みください。→「」


石碑の背が高いのもあり一度に撮影できませんでした(汗)
「礎」とは、「土台」や「基礎となるもの」という意味があります。
抑留による犠牲者を追悼する碑が「平和の礎」と名付けられていることに、私は、
この悲惨な歴史を忘れることなく、その教訓を未来の平和の土台としてほしいという願いが込められているように感じました。
幼い頃、こうした石碑に手を合わせていたところ、友人から「変だ」と言われたことがあり、そのことが少しトラウマで……
学生の頃は、周囲に人がいないことを確認してから、こちらの慰霊碑にこっそり手を合わせていた時期もあります……(笑)
そんな過去も、今では良い思い出。
今では堂々と手を合わせています。
近年は、日本を取り巻く国際情勢が不安定化している一方で、
こうした慰霊碑の管理に携わる方々の高齢化や、管理を引き継ぐ人がいなくなることも課題となっています。
一見すると無関係な二つの出来事のようにも思えますが、私はこの二つには、
どこか通じるものがあるように感じています。
先の大戦が終わり、「忘れてはならない」という思いから建立された慰霊碑も、
人々の記憶が薄れていく時の流れの中で、その存在を支える人が少しずつ減り、
それでも世界では、今なお戦争が絶えることはありません。
日本は80年以上、戦争を経験していません。
しかし、この現状を当たり前だと考えず、
こうした慰霊碑を訪れ、過去から学び続けることこそが、平和を守り続けるための第一歩なのではないか――
私はそう考えています。
次ページでは、伊那谷の発展に貢献した2人の郷土人についてまとめています!