映画『ペリリュー』見てきました!

可愛らしい絵柄では中和しきれないほどの、非常に苛烈で凄惨な戦いの歴史でした……
それでも、絵は本当に可愛らしいんですよね( ´ ▽ ` )
こちらは現在も原作漫画が販売されている作品ですので、
今回は作品そのものネタバレは避け、史実と鑑賞した感想を中心に綴っていこうと思います!
※感想の内容上、一部ネタバレを含む場合があります。
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ペリリューってどこ?ペリリュー島と日本の歴史
ペリリュー島とは、パラオ諸島を構成する島の一つで、パラオ南西部に位置する南国の島です。
日本から約3,000km南に位置し、日本から飛行機でも4~5時間ほどかかります。
フィリピンの東側に位置し、島の面積は約13平方キロメートル(東京ディズニーリゾート約6〜7個分)。最高標高は約50メートルと低く、島民が暮らす地域のほとんどは海抜の低い平坦な土地です。
その目の前には、美しい珊瑚礁とエメラルドグリーンの海が広がり、世界有数のダイビングスポットとしても知られています。
パラオは現在は独立国家ですが、実は日本と非常に深い歴史的なつながりを持つ国でもあります。
パラオは日本の委任統治領だった
イギリスと日英同盟を組んでいた日本は、1914年、
イギリスからの要請を受けて第一次世界大戦に参戦しました。
当時のパラオはドイツ領でしたが、連合国側として戦争に勝利した日本は、
1919年のヴェルサイユ条約を経て、パラオをはじめとする南洋諸島の委任統治を国際的に認められます。
そして1922年(大正11年)、日本はコロール島に南洋庁を設置し、
そこをパラオ統治の中心地としました。
当時のパラオの人口は約6,500人ほどでしたが、その後約25,000人もの日本人が移住したとされています。
当時の日本では、沖縄出身者やパラオの人々に対する偏見も一部存在していましたが、
パラオでは沖縄から移住した人々との交流が深く、親しい関係が築かれていたという証言も残されています。
日本は漁業や農業、リン鉱石の採掘業の振興に加え、学校を建設して日本語教育を行い、道路や水道、島々を結ぶ橋などのインフラ整備も進めました。
その結果、パラオは自給率の向上など、大きな発展を遂げていきます。
そしてその名残は、現在も残っています。
パラオの言語には日本語由来の言葉が数多く取り入れられており、「裸足」「お金」「謝る」「大丈夫」などは、日本語とほぼ同じ発音・意味で通じるのです!
(地域差はありますが、特にペリリュー島周辺で通じると言われています)。
当時、日本語教育を受けたパラオの方々の中には、現在もご健在の方がおり、
とても流暢な日本語で当時の様子を話されています↓
戦後、日本はパラオに対し、約230億円以上の無償資金協力と約70億円の技術協力を行い、さらに太平洋戦争中に残された不発弾などの処理にも取り組んできました。
これらの支援は、パラオ国際空港ターミナルや「日本・パラオ友好の橋」の建設をはじめ、電力供給やインフラ整備、人材育成など、さまざまな分野に生かされています。
こうした長年の交流もあり、パラオは現在、「世界有数の親日国」として知られています。
日本ではまだあまり知られていない国ですが、パラオには今なお日本へ親しみや感謝の気持ちを抱いてくださる方々が多くいらっしゃいます。
だからこそ、この「親日国」という評価に甘えることなく、これからも日本とパラオが手を取り合い、これからも変わらぬ友好国であり続けてほしいと願っています。
「ゲルニカ」ってなに?
作品のサブタイトルにもなっている「ゲルニカ」とは、正式にはスペイン・バスク地方にある町「ゲルニカ(Gernika)」のことです。
しかし現在、「ゲルニカ」と聞いて多くの人が思い浮かべるのは、
画家ピカソが1937年に描いた、縦約3.5m、横約7.8mにも及ぶ巨大な絵画『ゲルニカ』でしょう。
この作品は、スペイン内戦中に起きたゲルニカ爆撃を題材に描かれたもので、
戦争の悲惨さや暴力への抗議を象徴する作品として、世界を代表する反戦絵画の一つとされています。

その内容は、一言で言えば「阿鼻叫喚」。
画面には、苦しみ叫ぶ人々や動物たちがモノクロで描かれ、
戦争がもたらす恐怖や絶望が強烈に表現されています。
ちなみに『ゲルニカ』のレプリカは、現在も国連本部の安全保障理事会議場前に設置されています。
世界の平和と安全保障を議論する場所の入口に、この絵が掲げられているにもかかわらず、戦争が絶えることのない現実には、非常に考えさせられるものがあります。
ピカソが『ゲルニカ』を描いたのは1937年。そのわずか2年後には第二次世界大戦が始まり、さらに1941年には日本も太平洋戦争へと突入。
そして1945年の8月には、2発の原子爆弾が日本を襲いました。
戦争の悲劇を訴える作品が生まれてもなお、人類は再び大戦へ向かっていったのです。
ペリリュー島の戦いで命を懸けて戦った日米の兵士たちも、軍服を脱げば家族や恋人を持つ、ごく普通の人々でした。
その彼らが、南国の美しい海と空に囲まれた島で命を奪い合い、多くの命と豊かな自然が失われた歴史があったのです。
まるで天国のような、美しい海と空に囲まれたパラオの地で、
あの苛烈な「ペリリュー島の戦い」を、まさに漫画という絵で表現したということ。
これが、サブタイトルの”楽園のゲルニカ”なのかなと考えました。
題材となった”ペリリュー島の戦い”
ペリリュー島の戦いとは、
日本軍にとって太平洋戦争末期の防衛戦の一つでした。
第一次世界大戦後、パラオは日本の委任統治領となり、1922年にはコロール島に南洋庁が設置されます。
その後、太平洋戦争が激化すると、日本軍はパラオ周辺の防衛を強化。
ペリリュー島には重要な飛行場が建設され、戦略上重要な拠点となりました。
当時のペリリュー島には、上空から見ると「4」の字のような形をした滑走路があり、
アメリカ軍にとってもフィリピン奪還作戦の重要地点だったのです。
ペリリュー島守備隊として派遣されたのは、
茨城県水戸市で編成された歩兵第2連隊と、
群馬県高崎市で編成された歩兵第15連隊(第3大隊)でした。
これらは日清戦争・日露戦争などにも参加した歴史ある部隊で、1944年2月以降、ペリリュー島の防衛任務にあたります。
1944年5月頃から、日本軍はアメリカ軍の上陸に備え、島内に500以上もの洞窟陣地を構築しました。
これは、圧倒的な火力を持つアメリカ軍に対し、地下陣地を利用した持久戦を行うための戦術でした。この戦法は、後の硫黄島の戦いなどでも採用されることになります。
1944年9月6日。
アメリカ軍による激しい空爆で、ペリリュー島の飛行場は大きな損害を受けます。
そして9月15日。
アメリカ軍はペリリュー島へ上陸を開始しました。
アメリカ軍の目的は、フィリピン奪還へ向けた航空拠点の確保。
一方、日本軍にとってパラオの防衛は、本土決戦へ向かう時間を少しでも稼ぐための重要な戦いでした。
この時の戦力は、
日本軍約1万人に対し、アメリカ軍は約4万人以上。
圧倒的な戦力差の中、日本軍は洞窟陣地を利用して激しく抵抗します。
上陸後の激戦は続き、当初アメリカ軍は短期間での制圧を予想していました。
しかし、中川州男大佐率いる守備隊は、実際には約2か月以上にわたり抵抗を続け、アメリカ軍に大きな損害を与えました。
11月。日本軍の物資や兵力は限界に達します。
中川大佐は司令部の玉砕を決定し、軍旗の奉焼や機密書類の処理を命令。
11月24日、中川大佐は自決し、
「サクラサクラ」の電文によって守備隊の最期が本土へ伝えられました。
その後、残存兵による最後の抵抗が行われ、
11月27日、ペリリュー島における日本軍の組織的抵抗は終了しました。
この戦いでは、日米双方に多数の死傷者が発生しました。
日本軍は約1万人以上が戦死し、
アメリカ軍も約2,300人以上が戦死、8,000人以上が負傷したとされています。
小さな島をめぐる戦いでしたが、双方にとって非常に激しい戦闘となりました。
そして実は、戦闘が始まる前にペリリュー島の島民は他の島へ避難しています。
その背景には、軍事機密保持という目的だけではなく、戦闘に島民を巻き込まないという意図もあったとされています。
そのため、1944年9月にアメリカ軍が上陸した際には、多くの島民はすでに島を離れており、戦闘による住民被害はほとんど発生しませんでした。
しかし、戦争は島の占領だけでは終わりませんでした。
戦況の混乱により、司令部の玉砕や終戦を知らない日本兵も多く残され、終戦後も島内で潜伏を続ける兵士たちがいました。
その後、数年をかけて少しずつ帰還していきますが、最後まで島に残っていた兵士たちの帰還は1947年頃まで続きました。
小さな南国の島で行われた戦いは、
日米双方にとって、忘れられないほど過酷な戦場となったのです。
誰も知らない戦いの歴史
圧倒的な物量差と兵力差を前に、それでも粘り強く戦い続けた日本軍。
帰還した日本兵が、本土の人々へペリリュー島にいたことを告げると、
返ってきた言葉は、
「ペリリュー島はまだ戦う、まだ戦うって有名だった」というものだったそうです。
しかし、勝利したアメリカ兵士たちもまた、決して幸せな帰還ではありませんでした。
苛烈な戦闘によって深い精神的な傷を抱えた兵士も多く、帰還後も「ペリリュー島の戦い」を知る人は少なく、称賛されることも、苦しみを理解されることもないまま日常へ戻った人々がいました。
それでも、激戦を生き抜いた日米双方の元兵士たちの証言には、
「アメリカはすごかった」
「日本は素晴らしかった」
という、互いを称える言葉が残されています。
誰も幸せにならなかった戦い。
誰にも知られなかった戦い。
あの時、ペリリュー島で日米両軍がどれほど激しく戦い、
どれほど多くの人々が命を懸けていたのか。
その本当の重さを知っているのは、
きっと、あの場所にいた日米双方の兵士たちだけだったのかもしれません。
映画『ペリリュー』を鑑賞した感想と願い
本日は、岡谷市のスカラ座さんで鑑賞しました。
結構遠いんですが、近場の映画館では上映期間が終わってしまった作品でも、
スカラ座さんではまだまだ上映してくれるので、かなり助かっています(´;▽;`)

上映スクリーンの外のスペースには、設定資料や原作のページがずらっと。


田丸かわいいよ田丸(*´∀`*)
吉敷くんはあれだな、
時代が違えばダンスがキレキレの
アイドルか、殺陣がうまいイケメン俳優に
なっていたかもしれないな。
なんかいつか描いてみたいな。等身大
田丸と吉敷くん。
皆さんの推しは誰でしたか?
私は小杉副分隊長(だったかな?)です。
冷静でいられるのがかっこいいなあと……
物語は、ペリリュー島へ配属された主人公・田丸均(たまる ひとし)が、
小隊長から「功績係」という役目を任されるところから始まります。
それは、戦場で亡くなった仲間たちの最期の様子を、内地に残された遺族へ手紙で伝える仕事でした。
漫画家を夢見ていた田丸なら「物語を書く力があるだろう」という小隊長の考えから、
この役目を任されます。
しかしその仕事は、戦闘ではなく事故や不注意による死であっても、
「勇猛果敢な最期だった」と事実を書き換えて伝えることでもありました。
その頃、パラオ周辺の島々では日本軍が次々と玉砕し、戦火は田丸たちが駐留するペリリュー島にも迫っていました。
美しい海には機雷が敷設され、島内には地雷や防衛陣地が築かれていきます。
やがて、ペリリュー島にもともと暮らしていた島民たちは、全員が船で他の島へ避難し、
残った日本兵たちは笑顔でそれを見送りました。
楽園のような大自然の中に並ぶ、大砲や銃器。
そして田丸たち日本兵は、この島で約2か月にわたり、米軍との激しい戦闘に身を投じることになります。
この続きは、ぜひ劇場版または原作でご覧ください。
(追記:2026年7月19日より、Netflixで独占配信が始まっています!)
映画公開前にテレビで特集が組まれており、私はそこでこの作品の存在を知りました。
まず目を引いたのは、やはりあの特徴的な絵柄です。
3頭身で目も大きく、軍服や銃がなければ、ほのぼのとした日常漫画だと勘違いしてしまいそうなほど可愛らしいデザイン。
しかし、作者・武田一義先生が描いた戦場は、その印象とは対照的でした。
兵士たちの表情や銃の構え方、極限状態の緊張感まで丁寧に描き込まれた『ペリリュー』は、紛れもなく”戦争を伝える漫画”でした。
実は武田先生は、『GANTZ』や『いぬやしき』で知られる奥浩哉先生のアシスタントを務められていた経歴があり、写実的な絵を描くこともできたそうです。
それでも武田先生は、
「作品には残酷な描写があるので、苦痛なく読んでもらえるようにと思った」
「残酷さや恐怖心をあおる演出で見せたいわけではない」
と語られています。
だからこそ『ペリリュー』は、戦争や歴史をこれから学びたい人にとって、とても入りやすい作品だと感じました。
もちろん、作中には出血や身体がバラバラになり、命を落とした兵士たちの姿も描かれています。それは決して誇張された演出ではなく、実際に戦場で起きていた出来事です。
しかし、だからと言ってその事実を、そのまま目にする必要もないと私は思います。
「そういうことがあった」
その事実を、3頭身という親しみやすい絵柄で見ること。それだけでも、立派な歴史の学び方だと思うのです。
作中に登場する人物たちは皆とても人間味があり、自然と感情移入してしまいます。
本来なら家族や恋人と平穏な人生を歩めたはずの若者たちが、一人、また一人と戦場で命を落としていく。
約80年前、本当にこうして未来を奪われた人々が大勢いた。
その時代を、傷を知らない私たちだからこそ、歴史を学び続けることには大きな意味があるのだと思います。
現在のペリリュー島は、美しい海と珊瑚礁に囲まれた世界有数の観光地となり、日本からも多くの人が訪れています。
一方で、島には戦車や壕、戦没者を慰霊する場所なども残され、あの戦争の記憶を静かに今へと伝えています。
この美しい島を、世界を、
二度と争いの舞台にしないために。
可愛らしい絵柄で、現代に戦争の現実と平和の尊さを伝え、
その学びへの門戸を広げてくださった武田一義先生、そして『ペリリュー ―楽園のゲルニカ―』という作品に、心から感謝したいと思います。
参考にさせていただいた記事:
「武田一義さんが語る漫画「ペリリュー」 3頭身キャラで描く理由」
「戦争証言アーカイブス>ペリリュー島の戦い(NHKアーカイブス)」