あれから、吉田は普通に話してくれるようになった。
私限定で発動していた挙動不審も、最近は少し落ち着いている。
そして吉田は、うちへ頻繁に通うようになった。
最初は週に一度だけ。でもその翌週は三日おきで、
今週に入ってからは連日のように顔を出している。
吉田が店に入り浸っていることを、母は怒るどころか嬉しそうに見ていた。
妹のアミも、「吉田」と呼び捨てにして懐いている。
でも、私にとっても吉田の存在は、ありがたいものになっていた。
夏休みの長さに見合わない、大量の課題。
特に数学では、少し前の単元の応用問題で躓いてしまっていたが、
吉田が遊びに来るおかげで順調に進んでいる。このままいけば、今週中に終わらせられそうだ。
二人で店番をしながら宿題をして、
店を訪れたお客さんには、吉田がおすすめの和菓子を教えてくれたりもした。
「あ、そういえば。ルミさー」
「うん?」
「進路調査票って、何書いた?」
私は「そんなのあったっけ?」と言いながら、山積みの課題の中から探し出す。
あった。進路調査票。
「えー、これ高校名も書かなきゃいけないの?」
「なんだ、まだ高校決めてなかったのか?」
驚いた。まだ二年の夏なのに、もう決めておかなきゃいけないものなのか。
吉田はもう決まっているのだろうか。
「ルミはやっぱり、ここは……継がないんだっけ?」
「うーん……」
天井を仰ぎ、ため息をつく。
吉田が言っているのは、あの日数学の時に聞いてきたことだろう。
正直、継ぐとか継がないとか、そういうことまでは考えていない。
ただ、本格的に和菓子作りをしてみたい。
今の私の本心は、それだけだった。
でも、現実はそう簡単に余裕を与えてはくれない。
うちの家計はやっぱり苦しい。
祖父母も母も毎日忙しく働いているのを見ているのに、私がわがままを言うなんて申し訳ないし、言いたくなかった。
それに、仮にあの学校に入れたからといって、その先の将来が心配だった。
どんどん自動化・機械化していく社会のあれこれ。
和菓子よりも洋菓子の方が圧倒的な人気がある今の世の中で、
“和菓子”を手作りできる人間になったところで、それ一本で食べていけるのか。
「……吉田はさ、普通の餡子のどら焼きと、チョコレートが入ったどら焼きだったら、
どっちを食べたい?」
ショーケースの中で売れ残った、二つのどら焼きを見ながら、私は吉田にそう聞いてみた。
同年代の意見。これが、これからの日本を形成する層だ。
「え?うーん……スーパーとかで見かけたら、買うのはチョコレートの方かな」
「やっぱりね」
私は苦笑した。
チョコレート、美味しいもんな。
きっと、餡子自体が消えることはない。
でも、これからの日本はどんどん西洋化していって、和菓子の領域は狭く小さいものになっていく。
その、限られた市場で生き残るのは、きっと有名な職人やブランドだけ。
私や、うちのような小さな和菓子屋は、少しずつ淘汰されてしまうのだろう。
そういえばこの間、同じ商店街にあった本屋さんが閉店した。
今はもう、ネットで本を買う時代だからと。
……そしてこれからは、本すら紙では読まれなくなる時代が来るのかもしれない。
目まぐるしく変わる世の中で、
うちは、私は、それにしがみついていけるのだろうか。
「でも、ルミんとこなら餡子だよ!」
はっとした。
「断然、餡子」と頷く吉田に、私は少し笑う。
「……なんでよ。そんなに美味しい?うちの餡子」
「あったり前じゃん!俺、ここの饅頭食って和菓子が好きになったんだぜ。
それまでは全然、和菓子なんか……饅頭だってほんとは、ルミに会うために……」
後半はごにょごにょして聞こえなかったが、私は吉田の言葉に驚いていた。
「え、本当……?お世辞じゃない?」
「え?あ、何が?あ、餡子の話?
そうだよ。家族や親戚にもあげたけど、それからほぼ毎日言ってくるんだぜ。今日も買ってこいーって」
「そう、なんだ……」
吉田はここに来るたびに、一人で食べるには無理があるほどの量を買っていってくれた。
初めは私も母も気を遣ってくれているのかと心配し、止めたりもしていたけれど……
「やっぱり、餡子!
餡子なら、この店にかなうとこなんてねえよ」
ニカッと笑った吉田の笑顔に、私は嬉しくなって笑った。
「そっ……か」
「えっ!?ルミ、なんで泣いて……」
「泣いてない!あっち向いてろ!」
「あっ、ご、ごめ……」
吉田が向こうを向いた時、私は急いでティッシュを取って目元を拭った。
そっか。うちの餡子って、ちゃんと美味しいんだ。
「でも……実はね」
私は吉田に、抱えていた悩みを打ち明けた。
行きたい高校には、家計の事情で行けなさそうなこと。
この間の進学説明会で練り切りを作って、
家族のことを思い出して、そして和菓子作りの楽しさに気付いたこと。
でも、このまま和菓子だけで生きていける気がしないこと。
吉田はそれに、一切言葉を挟まず、全て聞いてくれた後に、口を開いた。
「うーん……ルミって、めっちゃしっかり悩むんだな」
「……それ、どういう意味よ」
「あっ、いや、別に嫌味とかじゃなくて!
自分の将来を、しっかり考えてんだなってこと」
「考えるでしょ、普通」
だって、しっかり考えないと、
大変なのは今でもわかることなんだから。
私は小さい頃から、色々と我慢をしてきた。
みんなが必ずと言っていいほど遊びに行っているようなテーマパークだって、私は一度だって行ったことがない。
家にお金がないから、連れていってもらうなんて出来なかったのだ。
制服だって、同じ商店街のお姉さんのお下がり。
写真部で使っているカメラは、学校の備品のデジカメ。
おしゃれで可愛い一軍女子の友人たちが持っているものを、私は何一つ持っていない。
いい匂いのする香水、シャンプー、お化粧品……
前に、なんとか頑張って貯めたお小遣いで買ったものは、すでに流行の波が終わった“古いもの”扱いだった。
「私には最初から、無いものが多いから」
「なんで?あるもので上手くやったって、全然いいじゃん。
それだって、最近の流行りだぜ」
「……?」
最初、吉田が何を言っているのか、よくわからなかった。
首を捻る私に、吉田が指差したのは、私たちの二人の間にあるショーケースだった。
「ルミにはさ、もうあるじゃん。和菓子のうまい店がさ」
「……あっ」
世の中が変わっていくのなら、
私だって、その変化を怖がる必要なんてない。
チョコレートを敵にするのではない。
餡子を、もっとたくさんの人に好きになってもらえるようにすればいい。
和菓子の良さを残したまま、
今の時代に合う、新しい和菓子を作ればいいんだ。
「そうだ、そうだね……!ありがとう、吉田!」
「えっ?お、おう」
「ちょっと、このまま待ってて!」
私は吉田にそう言って、店の奥……
母のいる作業場に向かった。
「お母さん!!」
「うわ!びっくりしたぁ」
菓子を詰める箱を取るために、台の下で屈んでいた母。
その母が起き上がるのを待たず、私はずんずんと歩いて母の前に立った。
「ちょっと、作りたいものがあるんだけど、そこ借りていい!?」
「えっ?あ、い、いいけど……?」
「ありがとう!!」
まずは手を洗い、消毒。
母がいつも作業で残った材料を置くスペースから、その場にあるものをいくつか取って考える。
大福の生地、最中の外側、練り切りの餡。
さらに、甘栗とくず餅にカステラ、いちごとみかんの缶詰もあった。
ぐるぐるする、頭の中。
これらの限られたものだけで、何を生み出そう?
わからない。でも、楽しい。
私の口角は、いつの間にか上がっていた。
餡子はまだ残っていた。
吉田が「この店にかなうとこはない」と言ってくれた餡子。
これはやっぱり、使いたい。
「……あっ」
なら全部、いっしょにしちゃえば?
カステラは、間に餡子をつなぎにして、細かくバラバラにして最中に敷き詰める。
そして大福の生地は薄く伸ばして布のようにして、さらに餡子と甘栗、くず餅、いちごにみかんを上に乗せていく。
最後は、練り切り。
ふと顔を上げると、棚に竹串が入った袋と、今年のバレンタインで余ったデコレーションを見つけた。
それらを急いで取りに行き、残った練り切り餡に細工をしていく。
これで何を作ろうか。あの時作った桜?
……いや、この作品のテーマは“私の宝箱”だ。
価値がなく、あとは捨てられるだけ、
時代に淘汰されるだけのはずだったこれらは、
全部私の宝物だったと、みんなに伝えるために。
私の手は、練り切りでたくさんの小さなハートを作っていた。
「……できた!」
私の声で、母は作業を止めてこちらに来た。
「お、おお……これは……」
「あ……なんかしっちゃかめっちゃかだよね」
改めて目にして、途端に恥ずかしくなった。
母は皿をぐるりと一周眺める。
「これ、全部今日の余り?」
「うん」
「……面白いね」
「う……」
そして母は、皿を持ち上げ、
「これは……映えだね?」
と言って笑った。
「いいんじゃない?なんか、今っぽくて可愛いと思うよ」
「ほ、ほんと!?」
私はそれを持って、急いで店先に戻る。
「吉田!!」
「うおっ」
吉田は、帰らずに待ってくれていた。
私に驚き、私が皿に乗せて持ってきた何かに再び驚いていた。
「おおお、なにそれ。新作?」
「今作った!感想ちょうだいよ」
吉田は皿を覗き込み、
横から眺めたり、上から覗き込んだりした。
「へえ……これ、全部食べていいの?」
「うっ、うん」
吉田は、どこから食べようか迷うように皿を見つめ、少し迷ったあと、そっと持ち上げた。
口に運ばれるそれを、私はじっと見つめる。
最中のサクッとした音。
口の端からこぼれ落ちるカステラとアラザンは、これはちょっと改善点か。
「うん……」
もう一口。
「……うん」
吉田は何度か頷くと、
「美味い!ルミ、美味いよこれ!!」
と、目を輝かせて言った。
「ほ、ほんと!?」
口からボロボロと出る欠片を押さえながら、それでも吉田は、
私の作ったそれを一口ずつ味わうように、「うんうん」と何度も頷いていた。
やがて、ごくんと飲み込み、
こちらに身を乗り出して言った。
「お、俺食リポ下手くそだけど、言っていい!?」
「いいよ!」
「まず、最中がサクッとしてるのに、中はふわふわもちもちしてる!
これは、サクフワもちだ!」
「ふふふ」
吉田はまだ何か考えながら、口をもぐもぐさせ、なんか可愛いと思ってしまう。
「あ、あと、何より、練り切り!
小さいハートの練り切りが、一つ一つがちゃんと甘くて……
正直、大福の生地のせいでカステラの甘味が消えるんだけど、
でも果物と、この練り切りのおかげで、口の中ではちゃんと甘くなる!」
「なるほど、なるほど……」
ノートの端に書き込んだ、私の作品の感想。
反省や改善点はいっぱいある。でもそれ以上に、
私が作ったものを、「美味しい」と言ってもらえた。
お母さんでも、おじいちゃんでもない。
“私自身”が作ったものを。
その事実が、私は何より嬉しかった。
「店で売りなよ!」
「ええ〜?ふふふ……」
それは、不格好で、統一性も全くなくて、
いかにも中学生が作った変なお菓子。
でもこれは、私が初めて、自分の意思だけで生み出した和菓子だ。
そしてきっと、一生忘れることのない、
私だけの宝箱。
「……また、作りたいな」
空っぽになった皿を見つめながら、私はそっと笑った。
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