下平肭四先生の生まれと教員時代

『越えても越えても峠あり』の2ページ目に収録された、
下平肭四先生のお姿です。

※本記事は著書『超えても超えても峠あり』の内容のみをもとに執筆しています。

下平肭四のプロフィール

下平肭四先生は明治27年(1894年)7月5日
日清戦争のさなか、上伊那郡南箕輪村字御子柴に生まれました。

先生は、大正12年(1923年)に叔父の下平家へ養子に入るまでは、「高木肭四」というお名前でした。

そのため、本記事では養子に入る前の時代については、「肭四先生」と表記します。

父:高木乾(けん)太郎
母:高木志やう

肭四先生は、この二人の間に6人兄弟の三男として生まれましたが、
先生が6歳だった(1900年)、父・乾太郎は腸チフスで亡くなります。

当時、母は30歳でしたが、それから91歳を超えるまで、たった一人で6人の子どもを育て上げたそうです

 

1904年…奉公と復学

肭四先生は小学校卒業後の4月、親戚の勧めで、
東京・南小田原町で親戚が営む質屋へ奉公に出ます。
質屋の仕事は面白く感じていたものの、ある日、奉公先の娘の看病を任されました。

「私は質屋の番頭として来たのであって、娘さんの看病をするために来たのではない。
これでは将来の見込みがない」

そう考えた先生は、奉公から約1か月で帰郷を申し出ます。
引き留められた際も自身の考えを率直に伝え、堂々と郷里へ帰ったのでした。

この時の先生の年齢

当時(1886年〜1907年の制度改正前)の尋常小学校は基本4年制で、
満6歳で入学し、4年生で卒業する制度でした。
そのため、1900年に尋常小学校へ入学した肭四先生は、この時まだ10〜11歳だったことになります。

まだ10歳ほどの子どもが親元を離れて一人で東京へ行き、
世の中の理不尽に気付き、物事を筋道立てて考え、
さらに奉公先の大人にも臆することなく自分の考えを伝えたと思うと、本当に驚かされます。

こうして肭四先生は、高等科1年から学業を再スタートしました。

そして高等科卒業後、「師範学校へ入る前に、代用教員として1年間、南箕輪小学校の先生の手伝いをしろ」と代用教員の辞令を受け、南箕輪小学校へ奉職します。

当時は教員不足が深刻で、代用教員が現場を支えることも珍しくありませんでした。

 

1912年……教員生活への不満

3月に師範学校教員養成所を卒業した肭四先生は、現在の中川村にあった上伊那郡南向(みなかた)小学校本校へ就職しました。
しかしわずか2か月後の5月、教員不足のため、四徳という山奥の分教場への赴任を命じられます。

そこは本校から約8km離れた集落で、先生は一人暮らしをしながら約50人の児童に教鞭を執りました。
生徒たちに野菜を分けてもらうなど地域に支えられながら働いていましたが、年末になると先生は将来への不安を抱きます。

「この山の中では、新聞も二日遅れ。本も十分に読めない。
このままでは出世できない」

そう考えた先生は転任を願い出ますが、校長に断られてしまいました。
そこで隣の分教場に勤めていた同年代の教員と相談し、二人で分教場を離れることを決意します。
当然、大騒ぎとなり、郡役所からは「学校へ戻らなければ教員免状を取り上げる」との通知が届きました。

しかし肭四先生は郡長のもとへ赴き、
「資格を失っても構いません。この山にいては将来がありません」
と、自ら免状を返そうとします。

その覚悟に郡長は感心し、ちょうど教員不足となっていた中箕輪小学校への転任を認めました。
一方、ともに分教場を離れた教員は直談判に加わらなかったため、転任は認められなかったそうです。

四徳分教場の跡地について

調べてみたところ、中川村大草という地区に該当する四徳温泉や四徳神社がある山の上に、「心のふるさと(旧:四徳学校跡)」という場所が実在することが確認できました。ここがおそらく、先生が教鞭を振った学校だと考えられます。

ずいぶん、山奥です。
この学校は明治6年9月1日に開校し、昭和36年の大災害(おそらく昭和36年梅雨前線豪雨と思われます)まで、およそ90年近くにわたり四徳地区の子どもたちを育てた学び舎だったそうです。

2026年現在、この場所には四徳人会による看板と石碑が建立されていることが確認できます。

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