
本日は、長野縣護国神社に行ってまいりました!ヽ(*´∀`)
松本市内に鎮座する長野縣護国神社は、戊辰戦争以降、国のために殉じた長野県出身者をお祀りする神社です。
境内には数多くの慰霊碑や記念碑が建立されており、以前から一度ゆっくり参拝してみたいと思っていました。
今回は参拝とあわせて、護国神社の歴史や境内の石碑も見学してきましたので、
ご紹介したいと思います!
長野縣護国神社について

護国(ごこく)神社は全国各地に建立されており、幕末以降の戦乱や戦争で国のために殉じた方々が祀られています。
つまり、その神社がある地域の出身者で、時代ごとの戦争や事変に従事し、命を落とされた方々をお祀りする神社ということです。
私のように、郷土愛や地元の歴史に興味がある方には、
ぜひ訪れていただきたい場所です。


ここ長野縣護国神社では、戊辰戦争以降の長野県出身の英霊の方々が奉斎されています。
(「縣」は現在の「県」と同じ意味の旧字体です)
長野縣護国神社の歴史は、1938年に「長野県招魂社」として仮殿が建設されたことに始まります。
また当時、この場所は旧陸軍松本歩兵第五十聯隊に隣接しており、
松本市の中心部でもありました。(こちらについても、後日あらためて記事にしたいと思います!)
駐車場は県道沿いや鳥居の前、境内など複数箇所に設けられているため、平日やイベントのない日であれば余裕を持って参拝できると思います。


境内から拝殿までは舗装されており、車椅子の方でも安心してお参りできそうです。
また、お宮参りや結婚式でも人気の神社で、勝負運向上や合格祈願のご利益で知られています。
そして近年では「推し活」のご祈祷も人気のようです!すごい……!!
気になる方は、ぜひご祈祷されてみてはいかがでしょうか(^ν^)
長野から出征した英霊たち

長野県では、戊辰戦争において多くの藩が新政府軍側として戦いました。
松代藩は北越戦争へ出征し、上田藩や松本藩も会津・北越方面へ兵を派遣した記録があります。
また飯山藩は、旧幕府軍脱走兵との戦闘など、県内でも激しい攻防を経験したとされています。
その後の日清戦争では、長野県から出征した約4,000人のうち543人が戦没し、
その多くは感染症による戦病死だったとされています。
さらに日露戦争では、長野県出身者の戦没者数は6,500〜7,000人ともいわれています。
そして第二次世界大戦では、長野県から約23万4,000人が出征し、そのうち5万3,000人以上が命を落とされたとされています。
どの時代を見ても、その背後には数多くの戦いと歴史があるのです。

境内にある石碑
境内には、ニューギニア戦線、特攻隊をはじめ、
長野県と深い関わりを持つ満蒙開拓団の犠牲者を慰霊する石碑や銅像が数多く建立されています。
これら一つ一つを巡るだけでも、どれほど多くの命が失われ、そして現在の平和へとつながっているのかを考えさせられました。
ここからは、これらの石碑を一つずつご紹介していこうと思います。
・南十字星の下に散華せる 嗚呼戰友

この『南十字星の下に散華せる 嗚呼戰友』碑です。
南十字星とは、南半球の夜空に見られる十字形の星座で、パプアニューギニアでは各地から観測できます。そしてこの星、日本本島からは一切見ることはできないんです。
先の大戦では、1942年から終戦まで、
日本軍と連合国軍による「ニューギニアの戦い」が繰り広げられました。
この戦いは非常に苛烈で、「死んでも帰れない戦場」とまで呼ばれていました。
なお、漫画家の水木しげる先生もこの戦いに従軍していたことで知られています。
開戦当初、日本軍はトラック諸島の海軍基地防衛のため、
オーストラリア統治下にあったパプアニューギニアへの進攻を進め、米豪間の連絡遮断を図りました。
しかし、当時のニューギニアは未開発地域が多く、双方とも熱帯のジャングルの中で過酷な戦闘を強いられます。
日本軍は短期決戦を想定していたため補給が十分ではなく、食糧の確保にも苦しみました。
一方、連合国軍は豊富な物資に支えられており、戦況は次第に連合国側へと傾いていきます。
また、この戦線では航空戦力が大きな鍵を握り、
日本軍は制空権の喪失によってさらに厳しい状況へ追い込まれていきました。
そのような状況の中、兵士たちはマラリアや赤痢、腸チフス、デング熱といった感染症にも苦しめられていき、犠牲者は戦闘よりも病や飢餓によるものが多かったそうです。
日本軍約20万人のうち、生還できたのは約2万人といわれています。

また、日本人に限らず、台湾原住民の高砂族や朝鮮人志願兵、インド人・インドネシア人など、多くの人々が日本軍として戦ったことも忘れてはなりません。


「散華」……本来は仏教用語ですが、太平洋戦争においては、「散り落ちる桜のように、国のために命を捧げる」という意味で用いられていました。
ニューギニア戦線に従事した兵士たちの精神を尊び、そして弔う気持ちを、
文字としてこの石碑に刻んだのかもしれません。
そしてこの石碑の背後の小道には、
ニューギニア戦線に従事した長野県出身の戦没者の名が刻まれた、別の石碑を見ることができます。

長野県から出征し戦没した兵士は3,474柱にのぼり、六面ある区画のうち、
帰還された方々の名が刻まれているのは、たった一面のみでした。
その事実からも、この戦いの苛烈さを物語っているように感じます。
日本から5000km以上離れた、南十字星が輝く空の下。
ニューギニアには今なお、多くのご遺骨が帰還できずに眠っています。
しかし現在も、厚生労働省や民間団体の尽力により、遺骨収集と送還は続けられています。
国のために尽力し、静かに迎えを心待つ兵士たちと、
彼らを迎えるために、暑い空の下で尽力している人々。
この石碑の前に立つと、そんな彼らを思わずにはいられません。
・あゝ特攻

見えてくるのは『あゝ特攻』の銅像です。
特攻隊は、この松本の地からも飛び立っています。
松本市笹賀・神林・今井には、三地区にまたがる巨大な旧陸軍飛行場が存在していました。
この飛行場では、武揚隊(ぶようたい)と武剋隊(ぶこくたい)の2隊が訓練を行い、
慶良間沖での特攻作戦へと出撃しています。
そして1945年3月、
武揚隊7名、武剋隊15名の戦死が確認されました。
また、長野県出身の特攻隊員は、陸・海・空軍を合わせて160名余りが戦死されたといわれています。


特攻隊については、私自身もまだ学び続けている途中です。
自分なりにしっかりと理解したうえでまとめたいと考えていますので、
さらに勉強を重ね、内容を整理した後、改めて別のノートでご紹介したいと思います。
・シベリア抑留慰霊碑

左に広がる木々に足を踏み入れると、
この『シベリア抑留慰霊碑』が佇んでいます。


抑留(よくりゅう)とは、他国の人間を自国の支配下に強制的に留め置く行為を指します。
終戦後、シベリアに約60万人、モンゴルにも1万2千人以上の日本人兵士や民間人が、
捕虜として拘束され、強制労働に従事させられました。
抑留の経緯ですが、これは日露戦争後までに遡ります。
日本とソ連は 日ソ中立条約 を結び、互いの戦争には関与しないこと、また、
どちらかが他国と戦争状態となった場合には仲介役を担うことを約束していました。
しかし、第二次世界大戦末期の、日本の敗戦が濃厚となった1945年夏。
スターリン率いるソ連は、日本が再三依頼した仲介を拒否し、日ソ中立条約も一方的に破棄。
満州や朝鮮、樺太、さらには北海道への侵攻計画を進めました。
これは原爆投下や度重なる空襲によって疲弊した、日本の敗戦間際を狙った対日参戦でした。
日本政府はソ連の動きを察知していたにもかかわらず、機密保持を優先し、
満州にいた日本人の大規模な引き揚げを行いませんでした。
その結果、終戦後も南下するソ連軍によって、多くの民間人が虐殺や暴行の被害を受け、
シベリアなどへ連行されました。
当時ソ連は、対ドイツ戦で莫大な犠牲を出しており、シベリアや衛星国モンゴルの開発に必要な労働力が不足していました。
そこで、武装解除後の日本人を労働力として各地へ移送し、過酷な強制労働に従事させたのです。
当時ソ連側は、日本人を「捕虜」として扱っていました。
もっとも、戦前にはすでにハーグ条約など、捕虜保護を定めた国際法が存在しており、
捕虜を人道的に扱うという考え方自体は国際社会で共有されていました。
一方で、ソ連は1929年の捕虜条約には加盟しておらず、そのことが抑留や強制労働の背景の一つになったとも言われています。
・シベリア慰霊碑の後ろにある『異国の丘』碑

そこには『異国の丘』と刻まれた大きな石碑があります。

――“今日も暮れゆく異国の丘に
友よつらかろう せつなかろう
我慢だ待ってろ 嵐が過ぎりゃ
帰る日も来る 春が来る”
抑留者たちが故郷を想い、口ずさんでいたこの『異国の丘』という歌は、
吉田正という歌謡作曲家が作曲した「大興安嶺突破演習の歌」という原曲に、
シベリアに抑留されていた増田幸治という兵士が作詞をしたとされています。
また、この歌をモチーフに映画化もなされたようです。
この詩の横と真下には、彼らが従事させられた、
過酷な労働環境の様子が描かれています。




抑留者たちは、極寒の地で過酷な重労働を強いられ、その休息先である収容施設も劣悪な環境だったため、飢えや感染症、凍死によって多くの人々が命を落としました。
現在もロシアや周辺国には、この時の労働によって建設された建物や鉄道が残され、
一部は現役で使用されていますが、それらがどのような歴史の上に築かれたものなのかは、現地でもあまり知られていません。
そして、シベリア抑留で亡くなった日本人は、約5万5千人にのぼるとされています。
ご遺骨の多くは今も、冷たい凍土の下に眠ったままです。
国に翻弄され、過酷な環境に何年も置かれることになった多くの日本人。
しかし日本もまた、戦時中には捕虜となった外国人を労働に従事させた歴史があります。
こうした悲しい歴史の上に今が成り立っていること、
そして同じ過ちを繰り返さないという意識が、今の世界には必要なのだと感じます。
・砲魂


「嗚呼戰友」碑の左に抜ける小道を進み、駐車場を右に少し進むと、
『砲魂』と刻まれた、新しめの石碑を見ることが出来ます。
この碑を建立した「仏印派遣討四二三七部隊第四中隊 ― 佛印長野県出身者の会」は、
石碑と同名の『砲魂』という戦争体験記も出版されていました。
中央図書館に寄贈されていたため、先日拝読しました。
刻まれた『砲魂』とは、
“同じ釜の飯を食べあった長野県出身者が、血みどろの中で綴った山砲兵の魂”
を意味しているのだそうです。
山砲とは、大きな車輪を備えた分解可能な大砲のことで、山岳地帯や不整地での運用に適しており、歩兵を後方から支援するために用いられました。
戦闘時には、山砲兵たちがその場で組み立てて運用していたようです。
本を出版した長砲会は、長野県出身の山砲兵たちによる戦友会であり、
その名の通り、戦時中は山砲を主に取り扱う部隊だったのです。
現在のベトナム・ラオス・カンボジア、そして中国広東省湛江市の一帯は、1954年までフランス領インドシナと呼ばれる植民地でした。
日本側では、この地域を「佛印(仏印)」という略称で呼んでいました。
1937年に勃発した日中戦争では、アメリカやイギリスなどが蒋介石率いる中国側を支援していたため、日本は戦争を短期間で終結させることができず、戦いが長期化していきます。
その際、中国への支援物資輸送ルートとして重要視されていたのが、
“佛印を経由する”援蒋ルートでした。
戦争の長期化が進む中、日本軍は中国への支援遮断と東南アジア進出を視野に、対ドイツ戦で敗北していたフランスに対し、佛印ルート閉鎖を要求。
当初、西原一策仏印監視団長や大本営は、平和的進駐を模索していたとされています。
しかし、交渉の停滞や現地情勢の緊迫化に伴い、日本軍内部では次第に武力進駐を支持する流れが強まっていきました。
そして1940年、北部仏印への進駐が実施されます。
その後の南部仏印進駐は英米諸国の強い反発を招き、石油輸出禁止などの経済制裁へと繋がり、やがてこれが、太平洋戦争開戦の一因になったとされています。
『砲魂』には、実際に佛印進駐へ従軍した方々の生年も掲載されていました。
その全員が大正生まれで、徴兵時はまだ二十代の若者だったことがわかります。
戦争という非日常の時代に生まれ育ち、未開の南国で厳しい訓練と戦いの日々を送り、
現地の人々との交流の中で、人種や国境を越えた友情が生まれる一方で、
同じ釜の飯を食べた仲間を失っていく。
それが、彼らの青春でした。
著書の最後には、会の方々のお名前やご住所が掲載されたページがありました。
そこで、私の実家とご近所だった方や、同郷の方々も多く掲載されていました。
その多くの方々が、現在はお亡くなりになっていることを考えると、難しい話ですが、
「もっと早く、歴史や戦争史に興味を持つべきだったなあ」など考えてしまいます。
(私の今の年齢的にも、そもそも私が生まれた頃であったとしてもお会いすることすら難しいのですが……)
戦争経験のある方々や、語り部が減少している昨今。
平成生まれの私には、その激動の時代を想像することはできても、
実際に生きた人々の感覚や苦しみを、本当の意味で理解することはできません。
だからこそ、先人たちへの感謝を忘れず、
その積み重ねの上に今を生きていることを心に留めながら、静かに手を合わせて参りました。
・拓友之碑

(『砲魂』碑の向かい)

(護国神社美須々の森内)
『拓友之碑』は、満州へ渡った開拓関係者や、その地で犠牲となられた人々を慰霊するための石碑です。
長野県護国神社では、敷地内の各所に2基の拓友之碑が建立されています。


世界恐慌による生糸価格の暴落、関東大震災、さらに冷害による凶作などにより、
養蚕と農業を主産業としていた長野県は大きな打撃を受けました。
そうした中、日本政府は1932年に建国された満州国への入植政策を進め、多くの人々が満蒙の地へ渡りました。
全国で最も多くの開拓民を送り出したのが長野県だったとされています。
1938年からは、全国で「満蒙開拓青少年義勇軍」として少年たちも募集され、終戦までに約8万6千人が満蒙へ渡りました。そのうち、長野県出身者は約7千人にのぼったそうです。
彼らは開拓や農業に従事する一方、戦局の悪化に伴い、国境警備や軍事訓練も行うようになりました。
1945年8月、ソ連軍の侵攻により、多くの義勇軍関係者が犠牲となりました。
逃避行や抑留の中で命を落とした人も少なくありませんでした。



斉藤中隊の石碑背面には、中信地区から送り出された217名の義勇兵全員がソ連軍の捕虜となり、
そのうち120名以上が祖国へ帰ることができなかったことが記されています。
まだみんな、14、15歳の少年たちでした。
刻まれた名前の多さに、胸が強く締めつけられます。
国のために、若くして命を捧げたという点では、彼らの精神には特攻隊と通じる部分もあるように感じます。
こうした悲劇が二度と繰り返されないことを願い、静かに手を合わせました。
・平和の像


像の少年が掲げている鳩が平和の象徴とされた由来は、旧約聖書「ノアの方舟」の物語からです。
神による大洪水の後、ノアは水が引いたかを確かめるため、箱舟から鳩を放ちました。
すると鳩は、オリーブの枝を持って戻ってきたことから、
ノアは大地が再び平穏を取り戻したことを知ったとされています。
また日本でも、戦後の広島平和祭で鳩を放つ行事が続けられていることや、
1949年のパリ国際平和会議のためにピカソが描いた「平和の鳩」の影響などにより、
鳩は広く平和の象徴として親しまれています。
先の大戦で世界中の人々が苦しんだことを、神の裁きだったとは決して思いません。
しかし、世界が再び平穏を取り戻したことを鳩が示したように、あの悲劇がもう二度と繰り返されないことを願います。
■ 昔、そして今
現在では、自衛隊・警察官・消防士の殉職者も、長野県護国神社のご祭神として祀られています。
戦争のない時代となった今もなお、国のため、国民のために命を落とされる方々がおられることは、非常に悲しく、重い現実だと感じます。
今この地に生きる者として、昔も今も地域や国を守るために尽くされた方々へ感謝を込め、手を合わせて参拝させていただきました。
また機会を見つけて、ぜひ伺いたいと思います。

