下平肭四先生の生まれと教員時代

1913年……西駒ヶ岳大量遭難事故の当事者に

実は肭四先生は、1913年に発生した木曽駒ヶ岳大量遭難事故に、
間接的に関わっていました。

肭四先生が郡長とのやり取りを経て中箕輪高等小学校へ赴任した翌年の、
大正2年のことです。

中箕輪高等小学校(現・箕輪町立箕輪中学校)では、生徒の精神を鍛えることを目的とした集団登山が、西駒ヶ岳で行われていました。

これは、ただの遠足やレクリエーションではありません。
高等科の生徒たちが中央アルプスの最高峰(標高2,956m)へ登り、山頂で露営まで行うという、現在の感覚から見ても非常に厳しい行事でした。

そして、この年の8月24日。※1
この年も、中箕輪高等小学校では西駒ヶ岳登山が行われました。

この日は高等科2年生全員と青年会長(同窓会員)、そして教員3名が引率として同行しました。肭四先生も、その一人でした。

このとき引率責任者だった赤羽長十校長は、「駒ヶ岳の主」と呼ばれるほど駒ヶ岳に精通した人物だったそうです。

やがて一行は、駒ヶ岳の麓・内ノ萱へ到着します。
もともと山登りが好きだった肭四先生は、駒ヶ岳への登山経験も二度あり、
自分も男子生徒たちとともに登山するものと思っていました。

ところが赤羽校長から突然、
「高木君は女生徒のあとについて、仲仙寺のほうの案内役になれ」と命じられます。
女生徒たちは、西箕輪の仲仙寺を訪れる予定だったのです。

肭四先生は、
「私は駒ヶ岳へ登りたい」と申し出ましたが、
「校長の言うことをきかない教員はいけない。校長命令だ」と一喝され、
やむなく仲仙寺へ向かい、一泊して学校へ戻りました。

ところが翌日になっても、男子生徒たちは帰ってきません。
その後、中部電力内ノ萱発電所からの通報により、「生徒多数が遭難した」ことが判明しました。

中箕輪村・南箕輪村・伊那町から数百人の消防団員が鐘を鳴らしながら駒ヶ岳へ向かい、捜索が始まります。
肭四先生も麓に1週間泊まり込み、毎日捜索にあたりました。

そして、生徒10名、青年会長1名、合わせて11名が犠牲となったことが明らかになりました。

肭四先生の著書では、赤羽校長は山の峰を何回も行き来して、
死んでいる生徒が数人いることを確認した後、
ついに駒ヶ岳で舌を噛み切って、責任をとって自殺されたと記されています。※2

この出来事について、肭四先生は、
「ほんとうにりつぱな最期を遂げたのです。」
と回想しています。

補足

本研究では当時の著書の記述を尊重しつつ、日付や関係者の最期については、
資料間で記述に差異が見られるため、その点を付記しておきます。

※1…日付のずれについて

木曽駒ヶ岳大量遭難事故の発生日について、肭四先生の著書では「8月24日」と記されていますが、
現地に建立されている「遭難記念碑」の碑文や、現在一般的に参照されている資料では、遭難事故は「8月26日」に発生とされているものが多く見られます。

そのため、本記事では肭四先生の著書に沿って記述していますが、その後の日付についても2日分のずれが生じています。

※2…赤羽校長の最期について

肭四先生の著書では、赤羽校長は責任を感じて自ら命を絶ったと記されていますが、当時の記録では、

・遭難2日目に、低体温症となった生徒1名を背負って小屋を出て下山を決断し、濃ヶ池付近でその生徒とともに亡くなった

・遭難3日目に、救助に駆けつけた消防隊員の前で「この事故の責任は全て私にある」と言い残し、舌を噛み切って亡くなった

というように、資料によって記述が異なります。

西駒ヶ岳大量遭難事故の詳細

本研究では下平肭四先生の著書を主な出典としておりますが、
この事故については資料によって記述が異なる点もあるため、
ここでは一般的な資料で語り継がれている事故の概要についても、参考として記載しておきます。

これは、鍛錬教育のため西駒ヶ岳へ宿泊登山中をしていた中箕輪尋常高等小学校の教員・生徒38名の集団が、
1913年8月26日から翌日にかけて襲来した台風による悪天候に巻き込まれ、
うち11名が将棊頭山付近などで亡くなられた悲惨な山岳遭難事故です。

西駒ヶ岳への登山は毎年夏に実施されており、この年で3回目だったとされています。

〈1日目〉
午前5時40分頃に学校を出発した一行は、そこから16kmもの道のりを歩いてから登山を開始しました。

午前10時40分頃、一行は内ノ萱(西駒ヶ岳の麓)に到着し、昼食をとります。
当時は真夏の暑さを避けるため、正午までの長い休憩をとった後に出発したという説と、
11時ごろには出発し、桂小場から登山道を登っていったという説があります。

いずれにしても、

・登山開始前の休憩中、空が急に黒い雲に覆われ、雷が鳴り、にわか雨が降ったが、すぐに止んだ。
・これに嫌な予感を覚えた赤羽校長は、皆に「帰ろうではないか」と提案した。
・しかし、雨が止んだため、生徒たちは「帰らぬ、帰らぬ」と反発し、そのまま勝手に登っていってしまった。

という記録が、参加した同窓会員の手記に残されており、
この点については他の資料とも大きな矛盾は見られません。

そうして登山を再開した一行でしたが、この頃にはすでに台風が北上しており、天候は急速に悪化していました。

午後4時頃、一行は将棊頭山(しょうぎかしらやま・現在の西駒山荘が建つ場所ですが、当時はまだ存在していません)へ到着します。
しかし、この付近は森林限界を越えた吹きさらしの場所で、風雨も次第に強まり、肌寒さが増していました。
また、濃ヶ池(のうがいけ・木曽駒ヶ岳と将棊頭山のほぼ中間)付近では、疲労と空腹により、かなり衰弱した生徒がいたという記録も残されています。

そして午後8時頃、一行は山頂付近へ到着しました。
この頃には暴風雨となっており、避難場所として目指していた山小屋(現在の宝剣山荘)も、火災によって大きく損傷していたため、風雨をしのぐことはできませんでした。さらに、焚き火に使える燃料もなかったようです。

それでも一行は、所持してきた着ゴザ(雨ガッパのようなもの)を屋根代わりに張り、
朽ちた木材などを組み合わせて暴風雨に耐えようとしましたが、風はますます強まり、
即席の屋根も吹き飛ばされてしまいます。

一行は眠らないよう肩を寄せ合い、互いに声を掛け合って励まし続けましたが、
とうとう低体温症による最初の犠牲者が出てしまいました。

〈2日目〉
続くように2名の生徒も低体温症で昏睡状態に陥ったことから、引率者たちは、
天候がわずかに落ち着いた翌日の午前9時頃、下山を決断します。

まず教員1名が先行し、その後を、意識を失った生徒2名をそれぞれ背負った赤羽校長と、もう一人の教員が続きました。

しかし、濃ヶ池付近まで到達したところで再び風雨が激しくなり、寒さも一層厳しくなります。
赤羽校長が背負っていた生徒はそこで息を引き取り、校長自身も力尽きて亡くなりました。

後に続いていた教員が背負っていた生徒も亡くなりますが、それでも教員は必死に下山を続け、なんとか高木のある樹林帯までたどり着きます。

しかし…
指導者である赤羽校長が亡くなり、二人の教員も前後に大きく離れてしまったため、
生徒や同窓会員たちは、それぞれ自分の判断で行動するしかありませんでした。

生徒20人余りは、死の危険と隣り合わせの中を歩き続け、
午後1時頃、ようやく内ノ萱へたどり着き、そこで村人たちの救護を受けます。

こうして初めて遭難の急報を受けた内ノ萱と周辺の村々では、直ちに救助隊が組織されました。
中箕輪駐在所から20人が先行して出発し、伊那警察署でも直ちに40人の捜索隊を編成。
さらに郡役所からは書記・医師・人夫・巡査が派遣され、中箕輪の8か所からは600人以上の消防夫が招集されました。

〈3日目と、その後〉
午前1時、第一次捜索隊が出発し、この捜索隊によって赤羽校長と生徒1名が発見されました。
さらに午前7時には、約170人による第二次捜索隊が出発。
生存していた生徒や教員たちのほか、5人の遺体を発見しましたが、残る生徒1名だけは見つかりませんでした。

翌年の8月15日。
この事故を風化させないよう、上伊那郡教育会により、
一行が遭難した将棊頭山と濃ヶ池の間に「遭難記念碑」が建立されました。

事故から13年後の大正14年(1925年)7月26日。
慰霊も兼ねて開催された駒ヶ岳登山マラソンで、観客の一人が駒飼ノ池近くのハイマツ林で白骨を発見します。
遺留品などから、これが最後まで発見されなかった生徒1名であることが判明しました。

亡くなられた赤羽校長ですが、事故当時は世間からの非難が激しく、葬儀すら行うことができなかったとされています。
しかし後年、この遭難事故に関する多くの著書を執筆したノンフィクション作家・春日俊吉は、この事故について
「想定外の天候急変によるところが大きく、校長の判断ミスはあったとしても、教職としての責任は最後まで果たしており、過大に責められるべきではない」
という考えから、赤羽家を弔問したそうです。
また、当時の気象観測技術では、台風の進路を正確に予測することは極めて困難でした。

そして、この事故をきっかけに、登山道には避難小屋の必要性が強く認識されるようになります。

現在の西駒山荘も、この事故を教訓として建設された避難用の石室を始まりとし、
その後増改築が重ねられ、現在の姿へと発展しました。
なおこの西駒山荘の後ろが、赤羽校長たち一行が一夜を明かした将棊頭山です。

蛇足

そして、この悲惨な遭難事故ですが、小説家・新田次郎氏によって小説化され、のちに映画化もされています。

『聖職の碑』といえば、
特に長野県出身の方はご存じの方も多いのではないでしょうか?

長野県では、多くの中学校で学校登山が伝統行事として行われていますよね。
私も中学2年生の時、この西駒ヶ岳に登りました。
登山前には、クラスで映画『聖職の碑』を鑑賞しました。
古い映画でしたが、事故の壮絶さは十分に伝わってきました。

自分たちと同じ年頃の中学生たちが、これから自分たちも登る山で遭難し、命を落とした。この悲惨な事故を忘れず、今があることに感謝し──
……なんて立派な考えには、当時の私は至らず。

「これから登るっていうのに、何てものを見せてくれとんじゃ……」
と、ひたすら困惑していたことを覚えています(^_^;)
ちなみに、私が登山をした2013年は、この事故からちょうど100年目の年でした。

山荘の裏には、1990年頃に登山に訪れた生徒たちが植えたコマクサが数多く咲いており、
現在では美しい群生地となっています。

他の植物が育つことのできない過酷な高山帯の砂礫地で、鮮やかに咲き誇るコマクサ。
興味のある方は、ぜひ木曽駒ヶ岳を訪れ、その姿を見てみてください。
現在はロープウェイも整備されていますので、登山が苦手な方でも挑戦しやすいかもしれません。
そして、遭難記念碑にもぜひ手を合わせていただけたらと思います。

彼らの行いと死を、「無駄だった」とか「仕方がなかった」といった簡単な言葉で片付けるのではなく、
あの悲劇があったからこそ、山岳県・長野の登山のあり方が大きく変わっていった。
そんな歴史にも思いを巡らせていただけたら嬉しいです。

『聖職の碑』は今もなお、
多くの登山者が行き交う西駒山荘の近くで、静かに西駒ヶ岳を見守っています。

なお、このノートを作成するにあたり、とても参考にさせていただいたサイトさんがあります。

『聖職の碑』遭難事故の真実――、不安定な天気による風雨が体力を奪い、爆弾低気圧のように発達した台風が追い打ちをかけた【山と渓谷オンライン】
こちらでは、NOAA(アメリカ海洋大気庁)の再解析データを用いて、『聖職の碑』遭難事故当時の詳細な天気図や気象状況を再現されています。
当時の天候の変化や、山岳登山における教訓などが非常にわかりやすく解説されており、大変参考になりました。

駒ケ岳遭難特別展(聖職の碑)【しあわせ信州 長野県魅力発信ブログ】
こちらでは、2012年に箕輪町郷土博物館にて開催されていた「駒ケ岳遭難特別展」での展示が紹介されています!
当時の登山スタイルをイメージした人形のほか、手記や赤羽校長先生の着ていたシャツやメガネも見られますよ。

興味のある方は、ぜひこちらの記事もご覧になってみてください!

次ページでは、下平先生の教員時代・後半編へと続きます。

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