三、〈丸〉― 「和菓子屋のあの子」

今日の数学は、新単元。
何やらややこしい、図形の証明なるものをしなければならないらしい。

数学なんて、公式を覚えてひたすらに数字を書いていれば良いと思っていた私は、
ここで国語力と暗記力をも身につけなくてはならなくなった現実に頭を抱えていた。

そこに付随して、毎日朝から続く空腹。
成長期真っ只中の中学生にダイエットなんて、本当は良くないのかもしれない。

ただ、華奢で可愛い友人たちと並んでいると、
どうしても自分も、細く可愛くなければと思ってしまうのだ。

私の唯一の得意科目だった数学。
でも、この単元に入ったあたりで私はボロボロになってしまった。

他の教科は全くもって不得意な、私の最後の取り柄まで失われてしまったら、私はどうすればいいのか。

相変わらずスラスラと問題を解いていく吉田の隣で、私は床を見下ろしていた。

(はあ、将来どうしよ)

思い浮かぶのは、実家の和菓子屋を継いでいる自分だった。

このままだと私も、来る日も来る日も、客の減少と物価の高騰に悩見ながら、
ただ和菓子を作る日々になってしまうのだろうか。
……母のように。

私は、勉強ができるタイプじゃなかった。
ただ昔から、突出して数字にだけは強かった。
小さい頃に、母の手伝いで材料の軽量や梱包を任されていたおかげかもしれない。

まだ習っていない足し算引き算を既に習得していたから、周りより先に数字の基礎が固まっていただけ。

証明やら連立方程式やらのように、今までの知識の積み重ねだけでは太刀打ちが出来ないような単元に入ると、私は途端に自分は普通の人間……いや、普通以下の人間なのかも、と思うようになってしまった。

「ル……橋本さん」

ふと名前を呼ばれ、吉田の方を向く。

「なに?」

「あ、えと、わかんないとこあるかなって」

「え?ああ……じゃあ、ここ」

私が教科書に載った問題を指さすと、吉田はぞれをノートに書き写してスラスラと解いていく。まるで、既に正解を知っているかのように。

今は別に、わからないところを隣と話し合うような時間じゃない。
それなのに吉田は、私が躓くとそれがわかるのか、助け舟を出してくれるようになった。

「……あのさ、吉田」

周囲の雑談の声に紛れ込ませながら、私はそっと吉田に話しかけた。

「んー?な、何ー?」

「ありがとね、昨日。おまんじゅう」

私がそう言うと、吉田は驚きながら視線を私に移した。

「えッ!?あ、く、食ったの?」

「え、うん……あれ私にくれたんでしょ?
それと、なんかいっぱい買っていってくれたんでしょ。お母さん喜んでたよ」

「そ、そうだけど…… な、なんか言ってた?お義母かあさん……」

お義母さん?

「いや?別に、他には……あーでも、なんかめっちゃニヤニヤしてたなあ」

「あー、クッソ恥ずかしい。まじかあ……」

頭を抱えながら天井を仰ぐ吉田に、私は笑ってしまった。

「……吉田ってさ、数学得意なんだね」

私がそう言うと、吉田は目こそ合わせてくれなかったが、嬉しそうに鼻の下を掻いた。

「こっ、これはさ、ぶっちゃけ暗記なんだよ」

吉田はペンケースから単語帳を取り出すと、私に見せてくれた。

「証明って言っても、文章はほぼ決まってて。図形と、聞かれていることを判断して、
それに対してどう答えれば良いかを、この定型文に当てはめればよかったりする」

「……へえ」

驚いた。吉田の解説は、先生よりもわかりやすかった。
教えてくれた問題も、非常に簡単に解くことができた。

「ありがとう……めっちゃわかりやすかった」

吉田に教えてもらった通りに書いたノートは、まだ定着しきっていない私の知識を、
そのまま脳みそに貼り付けてくれるのりのような存在になった。
ハリボテの暗記だけど、読み返せばわかりやすい。

「お、おう!」

吉田はサッと丸まり私に肩を向けると、その向こうで前髪をいじりながらも、こちらにグッドサインを向けていた。

 

俺が教えたコツを参考に、橋本さんはどんどん問題を解いていた。

そのペンの動きが止まった頃を見計らい、俺は彼女に話しかけた。

「あのさ、はしも……」

「ルミでいいよ。お母さんの前ではそう呼んでいたんでしょ」

「うぐッ……じゃ、じゃあ、ルミはさ」

「なに?」

こちらを見つめる、綺麗な瞳。
あの日、和菓子屋で出会った彼女の母とよく似ている。

「和菓子屋を、継ぐの?」

彼女は、一度ノートに向けた視線を、
ゆっくりとこちらに向けた。

「継がないよ」

それは、迷いのない返事だった。

「そっ……か。ハハ……」

だから俺は、それ以上はなにも言えなかった。
ルミの瞳には、確固とした信念が込められているようだったから。

「……」

やがて俺たちは、お互いなにも言わずに机に向かった。

出来心で聞いただけ。
和菓子屋のことも、ルミの家の事情も俺はよくわかっていない。
わからないのに、聞いてしまった。

別に、俺には関係のないことなのに。

(でも、なんか……)

あの和菓子屋で笑っていたお義母さんの顔が、ふと頭に浮かぶ。

あんなにあったかい店も。
あんなに楽しそうなお義母さんも。

その全部を置いていくみたいに、
「継がない」と言い切った、ルミのその迷いのなさが、

俺には、なんだか少し、

 

……寂しく感じた。

 

授業が終わり、私は広げていた教科書やノートを片付けていた。

W吉田は授業が終わると、いつも駄弁りながら2組の教室に帰っていく。

「吉田さあ、この後の授業って何?」
前の吉田が、私の隣の吉田に声をかけた。

「えーと、進路説明会みたいなのじゃなかったっけ?」

そう聞いて、私もはっと思い出した。
そうだ。今日は高校の説明会がある日だ。

春から何度かあった進路学習の時間。
今日はいよいよ、地元の高校が集まる説明会だった。

生徒は興味のある学校のブースへ行き、パンフレットを貰ったり質問をしたりして進路を少しずつ固めていくのだ。

得意だと思っていた数学すら苦手になってきている私には、まともな進路などあるのだろうか。
どんどんと毎日が憂鬱になってきている。

「はあ……」

楽しそうに話すW吉田の横で、私はため息を吐くと、
ぞくぞくと帰り出す人の波に紛れて自分の教室に戻った。

 

「ルミ~」

教室に戻ると、既に説明会の準備を済ませた友人たちが、私の机の前で待ってくれていた。

「ごめん、遅れた」

「全然いいよ。ねえどこ行く?」

ピッと差し出された紙は、今日の説明会のブースが体育館内の地図になっていた。

「こんなにあるんだ」

「ね!田舎のくせに高校は割とあるんだよね」

一覧表にはこの辺で有名な進学校、運動部の強豪校、卒業後は地元の就職に強い学校……と、それぞれに特色がある学校が一覧となっていた。

「……私、行けるとこあるかな」

母が卒業した進学校の名前を指で撫でながら、私はまたため息を吐いた。

「えー!?大丈夫でしょルミは!
問題はあたしだよ~。万年赤点」

「ホントだよ。中卒なんか笑えないよお前」

「アハハ、あたしもー」

みんなは案外、気楽そうだった。仲良く盛り上がる彼女たちの後ろで、
私は一人落ち込みながら体育館に向かった。

 

体育館に着くと、中は高校から来た先生たちと中学生でごった返していた。
しかし、説明を受け終えた生徒たちは次々と教室へ戻っていくため、時間が経つにつれて、ブースもゆっくり見て回れるようになった。

大学進学に強い国立高校。

卒業後の就職に強い公立高校。

美容、看護、介護などの専門コースを設けた私立高校……

気になる学校はたくさんあったが、
うちの経営状況では、大学進学は難しそうだった。

(となると、やっぱり私に残された道は……)

地元の大企業ともパイプを持ち、卒業後は安定した就職先が期待できる、あの公立高校だろうか。

高校名が書かれた看板が見え、そちらへ向かおうとした、その時だった。

ふわりと、甘い香りが鼻をくすぐった。

「んー?何これ。なんか甘い匂いがするね」

友人たちも気付いたようで、きょろきょろと辺りを見回す。

ただ甘いだけじゃない。
(……この匂い、よく知ってる)

「あ、あれじゃない?
調理と製菓コースがある高校だって」

ぴっと友人が指をさす。
その先を見ると、体育館の少し外れに小さな人だかりができていた。

どうやら、生徒たちの前で和菓子を作り、
出来上がったものを配っているらしい。

「うわー、いいなあ!ねえ、あたしたちも行こうよ」

「えっ」

友人たちに腕を引かれ、私たちはその高校のブースへ向かった。

ちょうど前のグループの説明が終わり、
次の準備をしているところだった。

「お菓子まだありますかー?」

「ちょっ……」

勢いよく手を挙げた友人が、
いかにもお菓子目当てという様子で先生に駆け寄る。

先生は材料を入れていたのだろう保冷バッグを開き、

「ごめんなさいねぇ。ここにいる全員分は、もう無いみたい」

と申し訳なさそうに笑った。

「さすがに練り切りを一人一個っていうのは、大盤振る舞いすぎたわねぇ」

そう言って頬に手を添える先生は、
浴衣の上に割烹着を羽織った、上品な初老の女性だった。

練り切り。それだ。
あの時香った、懐かしい甘い香り。

父が亡くなり、店は母が継いだものの、
専門学校などを出たわけではない母には、唯一「練り切り」だけは作れなかった。

祖父も腰を悪くし、もう誰も作れなくなってしまった、うちの練り切り。

季節に合わせて、
春夏秋冬を和菓子で表現する、あの美しさ。

私は昔から、あれが大好きだった。

(すっかり忘れてた……
そうだ、うちにもあったな。そんな和菓子)

「ごめんなさいね、皆さん。
説明だけでもいいって方は、残ってくださると嬉しいわあ」

先生がそう声をかけると、
無料のお菓子だけを目当てに椅子へ座っていた生徒たちは、全員ぞろぞろと帰り始めた。

「うーん、お菓子が無いならいいや」

(ええ……みんなちょっと、失礼すぎじゃない?)

「あたしたちも帰るわ。ルミはどうする?」

出口へ向かいかけていた友人たちが、私を振り返る。

「あ、えっと……」

後ろには、申し訳なさそうに苦笑する、おばあちゃん先生。

「……私は、聞いていくよ」

友人たちに、自分の意思を伝えたのは初めてだった。

一瞬、みんな驚いたような顔をしたが、

「あ、そうか。ルミん家、和菓子屋か」

一人がそう言うと、それ以上何も言わずに帰っていった。

 

「……ありがとうねぇ、ルミさん」

「えっ!あっ、はい……」

すっかり誰もいなくなったブースで、私は先生と二人きりで学校の説明を受けた。

「……という感じでね。
我が校は普通科と並行して、調理・製菓コースもあるの。

高校の普通教育を受けながら、調理や製菓の基礎を三年間しっかり学べるから、
卒業後はそのままプロとして頑張っている卒業生もたくさんいるのよ」

それは、私にとってとても魅力的な学校だった。

高校教育を受けながら技術も身につけられ、
卒業後は就職することも、
姉妹大学へ進学して、さらに技術を学ぶこともできる。

けれど―― 

「私立、ですか……」

学費や在学中にかかる費用の一覧を見て、私はそっと下唇を噛んだ。

父もおらず、繁盛しているとは言えない自営業の我が家には、あまりにも高かった。

(奨学金は……大学へ行けたら、その時に考えたいし)

俯いた私に気付いたのだろう。

先生はパンフレットを静かに閉じると、
にっこり微笑んだ。

「ルミさん、実はね――」

先生は、さっきの保冷バッグをそっと開けた。

 

「材料、一人分だけなら残っているの」

そう言って、いたずらっぽく笑う。

 

「私が教えてあげるから……あなたが作ってみない?

練り切り」

 


※本家様のコント内では、
吉田くんが「数Ⅱなんですけど……」と発言する場面がありますが、
数Ⅱは高校2年生で履修する内容のため、本作では物語の設定に合わせ、中学2年生で扱う数学の単元へ変更しております。

元ネタの設定を参考にしつつ、本作独自の設定としてお楽しみいただけますと幸いです。

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