吉田という男を私はよく知らなかったが、数学の授業で彼と隣になり、何度か顔を合わせるうちに、わかったことがいくつかある。
こいつは、私以外には饒舌だ。
私と話す時とは違って、噛まずに話せるし、ちゃんと相手の目も見られる。
対する私とは、過剰と言っていいほどに私とは話さない。
隣の席の生徒とのコミュニケーションが必須だった、最初の数学の授業のような日は、
吉田は私とも話してくれる。
しかし、話すことを強制されない通常授業では、私と吉田の席は特に無音だった。
(なんかまるで、嫌われているみたいだ)
こちらを一切見ない吉田を横目で見ながら、私は勝手に傷付いていた。
嫌われる理由なんて思いつかなかった。
クラスも違うし、二年生になって初めて話したくらいなのだから。
時たま廊下ですれ違ったり、吉田のクラスである2組と体育が合同になったことはあるが、吉田のことなど全く気にしたこともなかった。
そもそも、あなたいたっけ?そんなレベルだった。
「……ということで、ここは受験でもよく出る問題だから、しっかり覚えておくように。
当然、テストにも出すからなー」
先生の言葉に、みんなが一斉に赤ペンを引く。
ああ、今日も余計なことを考えて授業が頭に入ってこなかった。
ふと、隣の吉田と目が合った。
相変わらず、顔をブンッと勢いよく横に逸らされる。
「……」
そっちが嫌いなら、こっちだってお前のことなんか嫌いだから。
空腹でぽっかりと空いた頭の中に、授業の内容は一つも入ってこない。
代わりに、饅頭の皮へ餡子を詰めるように、吉田への苛立ちだけが隙間なく押し込まれていった。
前回の期末テストで吉田と隣の席になってから、今日で2週間。
そろそろ夏休みが近づいてきており、周囲は授業中にも関わらず浮き足立っているようだった。
今日の数学は、今までの単元の応用問題が多くて大変な日だった。
ただでさえ基礎が十分に身についていない私は、どんどん進むAクラスの授業についていくのがやっとで。
そんな中、回されたプリントの問題は、応用問題ばかりでほとんど解くことができなかった。
こういったプリントの内容は、大体が休み明けの学力テストに同じ問題が出されたりする。だからきちんと学習しておきたいのに、
いかんせん朝食を毎朝抜き、最近は夜も殆ど食べない生活をしていると、頭が回らなくて仕方がなかった。
その代わり、最近は体重が順調に減ってはきたが、新たに肌荒れという悩みが出てきた。
何かを得ると、代わりに何かを失う毎日。
どちらも手に入れることって、そんなに難しいことだったのか。
授業の終盤で、隣の席とプリントを交換して答え合わせをする。
吉田は相変わらず全問正解で、対する私は半分しか取れていなかった。
コンプレックスとまではいかないけれど、私を無視(?)しながら好成績を取る吉田に、
私は最近勝手に苛立ちを覚えていた。
「な、なんか珍しいな」
私のプリントを見て、吉田がチェックをつけていく。
「ちょ、調子悪かったりする?」
珍しく私と目を合わせて話しかけてきた吉田に、私は少しドキッとした。
首を横に振った時、お腹が鳴ってしまった。
「あ、えっと……」
「えー、まだ二限目じゃない?」
カッカッカと笑う吉田に、私はますます赤面してしまった。
あれ、この人こんな普通に私と話せたっけ。
「忘れてよ」
「わ、わかったよ」
初めて見た吉田の笑顔に、普段よりドキドキしたのは、勝手に積み重なった嫌いのギャップと空腹で頭が回らなかったからということにしよう。
最近の数学は、Aクラス内でも学力が二分するほど、ついていける生徒とそうでない生徒がはっきりと分かれてきていた。
当然私は、ついていけない側の生徒。
吉田は数学が一番得意な科目らしく、先生の板書だけで悠々と理解していた。
「ねえ、吉田」
初めて私は、彼の名前を呼んだ。
「エッ!!?」
吉田は声を上げて驚くと、のけぞった拍子でガターンという大きな音をたて、
椅子から転げ落ちた。
みんなが一斉にこちらを見る。
「だ、大丈夫?」
「いってぇ……」
吉田は椅子の背もたれと座面の隙間にお尻がはまってしまったようで抜け出せなくなった。
周囲から笑われながら先生に腕を引っ張ってもらい、吉田はなんとか席につく。
「え、えっと何?」
吉田は相変わらず、長い前髪を指で整える癖を発動させていた。
注目を浴びたくない私は、吉田のオーバーリアクションに眉を顰めつつ、教科書の問題を指差した。
「……これ、教えて。わかんないの」
勇気を出して声をかけてみた。
決して、吉田と話したいからとかじゃない。
わからないなら、それが得意だという人から教えてもらうというのは合理的な判断のはず。
吉田は私が指した問題を見ると、ノートにスラスラとペンを走らせ、
あっという間に解いてしまった。答えも合っている。
「え、えっとさ、これは二つの公式を当てはめる問題で……」
せっかく丁寧に教えてくれている吉田のノートではなく、私の視線は吉田に向かっていた。
(なんでこの人、私にだけキョドるんだろ……)
問題をスラスラと解く姿、
友達と話したり他の生徒に解説をする時は、普通っていうか、
結構かっこいいのに。
(……って、何考えてんのよ私)
「……ってカンジ。わかった?あれ、橋本サーン……?」
いつの間にか説明は終わっていて、吉田は私の顔の前で手をひらひらさせていた。
「あ、ごめん全然聞いてなかった」
「エエッ」
ガクッと肩を落とす古いリアクションを取る吉田。
それを、いつの間にかこちらの方を向いていた前の席の吉田がニヤニヤして見ていた。
「も、もう一度解説しよか?」
吉田がそう言った時だった。
授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。
「あ、あー、ごめん橋本サン。あ、えっと、放課後はどう?」
「バカお前、放課後は委員会だろ」
「あ、そ、そうか」
前の席の吉田に言われ、隣の吉田は残念そうに頭を掻いていた。
「ごめん、ル……橋本サン」
なぜだか悲壮感たっぷりに頭を抱えて謝る吉田に、
私は手を振りながら「大丈夫だよ」と言った。
「こ、この埋め合わせは必ず……」
「埋め合わせ?いや、別にいいけど。次の授業のときでいいし」
「ごめんホント。マジごめん」
「いや、ほんとに全然いいって……」
ちょっと、しつこいな。
……そう思ったのに。
私の口角は、少しだけ上がっていた。
なんだ、この人。
実は、案外いい人なのかもしれない。
・
・
「ただいまー」
「おかえり~」
部活を終えて家に着くと、母が店番をしていた。
相変わらず、客は少ない。
それでも売れ残りが少ないのは、うちの店の味が好きだと言ってまとめて買ってくれる客が、毎週一定数訪れてくれるからだった。
黙々とレジ計算と商品の並べ替えをする母を見つめる。
もう10年以上は、母は同じ毎日を過ごしている。
やることは毎日変わらないのに、母は時折一人で笑って、幸せそうだ。
このお店の、何がそんなに楽しいんだろう。
母はこの家の出ではない。お嫁さんに来た方なのだ。
家業を継がず、高校卒業後は地元企業に就職した父は、
この店の味が好きだと言って長く店に通っていた幼馴染の母と結婚した。
そんな父が10年前に亡くなり、歳をとって後継もいなくなったからと店を畳むつもりだった祖父母を母は説得し、嫁入りした側の母が今の和菓子屋を切り盛りしている。
写真を見ると、若い頃の母は美人で聡明そうだった。
高校だってあの進学校を出たというのに、大学には行かず、あんな父と結婚して、
そしてこの店を継いでいる。
なんというか……勿体無い。
「えー!また高くなるんですか」
電話をしていた母が大きな声を出す。おそらく相手は材料の仕入れ先の担当者だろう。
「どうしよう……また小麦粉の値段が上がるんだって」
母は、聞いてもいないのに私に向かって愚痴り出した。
最近の物価高騰で苦しんでいるのは、何も一般家庭だけじゃない。
私達のような小さなお店の経営者にとっても、どんどんと吊り上げられていく材料費や燃料費は大打撃だった。
「先月値上げしたばかりだから、もうこれ以上値上げはしたくないんだけどね……」
はあ、と頬に手を当ててため息を吐く母に、私は胸を痛めていた。
母ならもっと、良い大学に入って良い会社に就職して、そして良い人と出会って、
今のようにお金に悩む生活とは程遠い生活を送られていたのではないだろうか。
家族経営の父の元になんて嫁いだら、こうなる未来などある程度想像はついていたはず。
広く大きな世界で輝けたはずの母が、こんな小さな店の、小さなことで悩まされているなんて。
「……ま!なんとかなるか」
母はぽん、と手を打つと、並べていた和菓子を片付けテーブルを拭き始めた。
私の回答なんて、はなから求めていなかったのだろう。
家事に育児に経営なんて大変そうなのに、母はなぜ幸せそうなのだろう。
「お母さんは……」
「そうだルミ。あんた吉田くんって子知ってる?」
私を遮った母の言葉に、意外な人物名が入っていて耳を疑った。
「……吉田?」
「はいコレ。吉田くんから」
ぽん、と母から手渡されたのは饅頭だった。
「何これ。うちの饅頭じゃん」
和菓子司はしもとの焼印つき。
「なんか……フフッ、あんたにって」
「いやだからなんで……」
クスクスと笑う母から饅頭を手に取って眺めた。
「……あ、うちに来たってこと?」
「そ~。お使いだってさ」
まあ、ホントにお使いだったかわかんないけど。
と、母は笑いながら片付けを続ける。
その顔には、明らかに何かが含まれた笑いが浮かべられており、それが気恥ずかしくてイライラした。
「あ、出席番号は32番だって。
これ言えばわかるって……フフッ、言ってたよ」
「何ソレ、意味わかんないんだけど」
出席番号?
ああ、前の席の男子も吉田だからかな。
じゃあ、今日うちに来たのは後ろの……
私の隣に座っている方の吉田?
「あー、あいつかあ」
「やっぱ知ってるの?」
「うん、でも……」
吉田となんて、接点は数学の授業くらいしかない。
出席番号を言われるまで、全く思い当たらなかったくらいだ。
授業中ですら話さないし、さっきも授業でわからなかった問題について聞いただけ。
授業が終わればその後校内で見かけても話さないし、声もかけない。
そんな吉田が、私に饅頭?
なんでだろ。私のこと嫌いじゃなかった?
「あ……」
もしかして、さっきの数学の問題のことだろうか。
(埋め合わせだとか言って、過剰に謝ってきてたし……)
全然、気にしてなかったんだけどな。
まあでも、お腹空いたし、食べるか……
ぱくりと頬張ったはしもとの饅頭に、
久しぶりの甘さを感じた。
ああ、この味だ。
うちのお饅頭はこんな味だったんだっけ。
うちの和菓子を、私は久しく食べていなかった。
飽きるほど食べて嫌になった、なんて嘘。
本当は、父のことを思い出してしまうからだ。
私たちを置いていった、無責任な父親。
でも、もうかれこれ7、8年は食べていなかったうちの饅頭を、
吉田が食べるきっかけを作ってくれた。
「やっぱうちの饅頭って美味しいね」
そう言うと、母さんはテーブルのメモ帳に向けていた視線をこちらに向け、
ニヤッと笑った。
「でしょ~」
台拭きを絞る母の手は、いつの間にか、
歳の割に皺が増えていた。