
長野縣護国神社の北に位置する、松本市の美須々公園内には、
旧陸軍の納骨堂が鎮座しています。
本日は、今もなお松本の地を見守る英霊たちが眠る、こちらの納骨堂と合葬碑についてご紹介いたします。


陸軍納骨堂とは?
1925年、長野県全域が松本聯隊区の管轄となり、全県が徴兵区となったことから、
長野県出身の全陸軍戦没者がこの納骨堂に祀られているとされています。
内部には、松本市を駐屯地としていた陸軍歩兵第五十聯隊をはじめ、6,252柱の英霊が、
ご遺骨やご位牌の形で安置されているようです。
戦没者は、もともとは蟻ヶ崎の霊園に埋葬されていましたが、
満州事変以降の戦死者増加に伴い、遺族や関係者が参拝しやすいよう、
現在の護国神社北側・美須々公園内へ移設され、現在に至っているようです。
こちらの陸軍納骨堂は、地鎮祭の後、1944年に建立され、その後数度の改修が行われました。
2011年6月に発生した長野県中部地震により、この納骨堂は外壁にひびが入り、
内部では骨壺が散乱する被害がありましたが、
2026年現在は修復工事が完了し、現在はとても整った状態で静かに佇んでいます。
基本的に内部には入れませんが、
毎年8月に行われる慰霊祭では、この扉が開放されるようです。
合葬碑の存在

納骨堂を正面に捉えた時、向かって左を向くと“合葬碑”と刻まれた石碑が見られます。

石碑の背面下部には金属製の扉が設けられていますが、現在も納骨が行われているかどうかは確認できませんでした。

建立したのが、金沢師団の経理部長…?
確かに太平洋戦争の際、長野県から出征した兵士たちの手記では、徴兵検査のあとに
金沢師団(石川県)で編成され、戦地へ向かったという記録もたくさん残されています。
この辺は今後、もっと勉強をしてみます!
二つの歴史

合葬碑は1944年4月、納骨堂は同年8月に建立されています。
このため、納骨堂完成までの一時的な安置場所として合葬碑が設けられたとも考えられますが、戦死者と戦病死者で安置場所の役割が分けられていた可能性もあります。
一方で、画像検索で確認できる慰霊祭が納骨堂のみで行われていることから、
現在は納骨堂に集約され、合葬碑は記念的な意味合いで残されているとも受け取れますが……いずれも明確な記録は確認できませんでした。
公的な調査や詳細な記録が残されていない点については、惜しく思います……
私の願い
明治以降、軍人墓地は陸海軍省によって管理されていましたが、敗戦によりこれらの組織が解体されると、その管理体制も大きく変わりました。
その結果、現在では納骨堂の管理責任が明確でないケースが全国的にあるといわれています。
日々の維持管理や、災害時の対応が十分に行き届かない場所もあるようですが、
この松本市の陸軍納骨堂については、護国神社の神職の方々によって管理されており、公園と併設されていることもあって、普段はよく整備されています。
戦争を肯定するものではありませんが、ここに眠る方々は、それぞれの時代の中で国を背負い、命を懸けた人々です。
同じ土地に生きる者として、その歴史に思いを馳せ、静かに手を合わせ、
平和を願う場がこれからも守られていってほしいと感じました。

昭和11年(1936年)というと、二・二六事件が連想されますが……
歩兵第五十聯隊は、1931年に満州事変に出動し、3年後の1934年に帰還しています。
その際に亡くなられた仲間たちを慰霊するためだったのかなとも考察。
ここも、今後の個人研究の課題ですね。

