松本の空を駆けた特攻隊たち ― 旧陸軍松本飛行場跡とは

松本市菅野小学校の一画には、
この地が旧陸軍松本飛行場であったことを示す石碑を見ることができます。

また、目の前の直線道路は、当時の滑走路の一部とされています。

これは、特攻隊が松本からも飛び立っていたことを示す、重要な戦争遺跡です。

本日は、この地の歴史と特攻隊の存在についてご紹介しようと思います。

 

飛行場建設の背景

太平洋戦争が激化してきた1943年10月。
当時の今井村役場に関係者が集められ、その場で飛行場の範囲が示されました。

なんとも突然なように感じますが、
後に名古屋の三菱重工業が松本市へ疎開してくることを考えると、この飛行場建設もそうした受け入れ体制整備の一環だった可能性があります。

実際、三菱重工業で製造された飛行機が、
この場所で整備や格納、そして隊員たちの飛行練習に使われていました。

同月、笹賀国民学校に関係する地主が招集され、
住民たちは耕地・山林など200町歩以上に及ぶ飛行場用地の買収に調印させられました。

そして測量が始り、1944年2月下旬には整地工事が開始。

工事には、中信地区の翼賛壮年団をはじめ、近傍の住民、学生、児童までが勤労動員され、さらには多くの朝鮮の人々も動員されました。
その数は、延べ十数万人であったといわれています。

 

住宅街に佇む格納庫の跡

石碑の横の、細い道を進んだ住宅地の中では、松本飛行場時代の格納庫跡を現在でも見ることができます。
今は、菅野小学校のグラウンドの基礎として再利用されたようです。

(格納庫とは、航空機を雨風から守り、整備や点検を行うための施設です)

※こちらは現在も見ることができますが、おそらく個人の敷地内かと思われますので、
見学の際は不法侵入にならないようご注意ください。

 

松本の空を駆けた、特攻隊員の存在

この飛行場からは、武揚隊(ぶようたい)武剋隊(ぶこくたい)の2隊が出撃しています。

両隊は昭和20年2月10日に満洲国の首都・新京で編成され、
その後各地の飛行場を経て松本に入りました。

武剋隊は2月20日に、武揚隊も同時期に松本に到着し、
いずれも約1か月間、浅間温泉に滞在していたとされています。

武剋隊は千代の湯目の湯
武揚隊は富貴の湯に滞在していた記録があります。

整備期間中、両隊は陸軍松本飛行場で訓練を行い、その後、
知覧や新田原を経て沖縄方面へ出撃しました。

沖縄・慶良間沖における特攻作戦では、武揚隊7名、武剋隊15名の戦死が確認されています。(出典:まつもと平和ミュージアムHPより抜粋、一部編集)

以上の情報から、彼らが殉じた大規模な特攻作戦は、
連合国軍が沖縄南西の慶良間列島に上陸した3月26日から始まった、陸軍による航空特攻作戦であると推測されます。

 

終わりに

戦争末期の1945年春。
沖縄戦突入に際し、陸海軍が大規模な攻撃作戦をとったこの時期に、
日本中の飛行場から、特攻隊が飛び立っていきました。
 

あとほんの少しでも早く、停戦合意がされていたら。

あとほんの少しでも、アメリカと日本が、歩み寄れていたら。

 

歴史にIFはありませんが、
日本の未来を信じ、守るため、多くの若者が命を賭したことを考えると、
どうしても救済の可能性を願ってしまいます。

過去は変えられません。
でも、未来を変えることはできます。

そしてそのためには、やはり、
過去を教訓にすることが大切だと思います。

 

二度と繰り返してはならない。

ありきたりな言葉かもしれませんが、歴史を学び、こうして遺構に触れるたびに、
私は何度もそう感じるのです。

 

石碑の内容(おまけ)

場所的にじっくりご覧になれない方もいらっしゃるかと思い、以下に書き残しておきます。↓

『戦争遺跡 旧陸軍飛行場(笹賀・神林・今井地区)』

太平洋戦争が激化してきた昭和18年(1943)10月、陸軍省から今井村役場に関係者が集められ、その場で飛行場範囲が示された。

その月のうちに笹賀国民学校に関係する地主が招集され、耕地・山林など200町以上に及ぶ飛行場用地買収に調印させられた。

10月には測量が始り、19年2月下旬から整地工事が開始された。

工事には、中信地区の翼賛壮年団をはじめ近傍の住民、学生、児童までが勤労動員され、さらには多くの朝鮮の人々も動員されたため、その数は延べ十数万人であったと、終戦直後の新聞は伝えている。

兵舎や格納庫を建てるために動員された大工や鳶職は、広く南信一円にまで及んだ。

陸軍飛行場が完成したのは昭和20年8月であるが、滑走路はそれ以前に利用可能であり、3月には当時浅間温泉に滞在していた特攻隊の隊員達がこの飛行場から飛び立っている。

また、「赤トンボ」とよばれる練習機による訓練も行われていた。

飛行場の施設は、現在の菅野小・中学校・住宅地の場所に事務所や6棟の格納庫等が集中し、

その西に現在の幅の広い道路と重なる滑走路、さらにその西に広がる広大な草地の方形区画部分、さらにその南の松林の中に向かう誘導路と多くの掩体壕があった。

本土爆撃がはげしくなると格納庫は目立つため、陸軍により2棟が破壊されたが、残りの4棟は、終戦時まで三菱重工業名古屋製作所の組立工場として使用された。

終戦後、飛行場に使用された土地の多くは農地に戻され、かつての滑走路は、菅野小学校西側の道路となり、格納庫などが置かれた土地は、住宅地となっている。また、格納庫などのコンクリート基礎の一部は菅野小学校グラウンドの基礎を兼ねており、現在でも確認することができる。

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