四度目の帰郷、支配人として
西那須野で一年半以上勤めた頃、上伊那銀行(現・八十二銀行)の頭取は先生の叔父に、
「あれほど見込みのある人間を、いつまでも他人の工場に勤めさせるべきではない」
と勧めました。
頭取からも「もう十分に修養した。今度は叔父の工場へ戻りなさい」と手紙を受けた肭四先生は、その勧めに従い、四たび叔父の山本館製糸へ戻ります。
そして、西那須野では事務員だった先生は、叔父の工場で支配人を任されることになったのでした。
渋沢栄一の助言と下平家への養子入り
近代日本経済の父と呼ばれ、新一万円札の肖像にもなった渋沢栄一。
実は肭四先生は、その渋沢栄一から才能を高く評価されていました。
大正9年、「自分の力で事業を興したい」と考えた肭四先生は、
生家の土地を借りて従業員約60人規模の製糸工場を創業します。
しかし約3年後、銀行の勧めで叔父の山本館製糸と合併することになりました。
ところが大正12年、関東大震災で山本館製糸は約70万円分(著書出版当時で約7億円相当以上)の生糸を焼失し、経営は危機に陥ります。
そこで上伊那銀行頭取が渋沢栄一へ相談すると、渋沢は、
「高木君が後を継ぐなら、債権はすべて免除しよう」
と提案しました。
渋沢は以前から肭四先生と面会しており、「あの人間なら必ず経営できる」と、
その才能を高く評価していたのです。
こうして肭四先生は、自ら創業した工場を閉鎖し、
叔父・下平家の養子となって家業を継ぐことを決意します。
この時から「下平肭四」と名乗るようになり、また、この頃に多加子さんと結婚し、
生涯の伴侶となりました。
二人の商人が譲らなかったもの
こうして肭四先生は叔父の養子となって経営を引き継ぐことを条件に、
渋沢商店は震災で生じた債権を免除し、
営業に必要な資産は上伊那銀行が担保として管理、
営業に不要な財産は渋沢商店へ渡すという契約が結ばれました。
後日、渋沢商店の担当者が工場内の財産を調査し、契約どおり引き渡しは完了します。
ところが数か月後、繭を使い切った倉庫から、
伊達家由来と伝わる立派な鹿の屏風が一枚見つかりました。
肭四先生は「営業に関係しない財産はすべて渡す」という約束を守るため、
すぐに渋沢商店へ送り届けます。
しかし渋沢さんは、
「調査が終わった後に見つかったものは、こちらの手落ちであり、あなたのものです」
として受け取りませんでした。
一方で先生も、
「契約で営業以外の財産はすべて渡すと約束した以上、自分のものにはできません」
と譲らず、送り返されても再び送り返すとまで主張します。
その誠実さに渋沢さんは涙を流し、
「商人はかくあるべきだ」と言って、ようやく屏風を受け取ったのでした。
※…「渋沢さん」の正体について
下平先生は、著書の中で
「叔父の取引先である横浜の渋沢栄一子爵の経営する渋沢商店へ行つて相談したところ…」と書いており、
その後も「渋沢さんは」と、苗字のみで続けていたため、
私も「渋沢さん」=渋沢栄一という認識でこのノートを作成しました。
しかし、1923年の関東大震災で存続の危機に陥った下平先生の会社を救った、
この「渋沢商店」というのは、
正確には渋沢喜作という人物が、渋沢栄一から援助を受けて創立したもので、
渋沢栄一本人は、この商店には経営者として携わった記録はないのです。
ちなみに渋沢喜作とは、渋沢栄一と従兄弟(従兄)という関係です。
こうなると、下平先生の「渋沢栄一子爵の”経営する”渋沢商店へ…」という記述に整合が取れなくなってしまいます。
なので私は、「この”渋沢さん”ってもしかして、渋沢栄一ではないのでは?」
という疑問が湧いたので、一度しっかり調べてみることにしました。
まず、「渋沢商店」とは、
1875年に喜作が栄一から援助を受けて創立した廻米・生糸問屋の会社です。
最初は上信奥羽の米産地から東京への廻米・委託販売も行っていましたが、
関東大震災の後は廻米問屋を辞め、生糸の貿易や委託販売をメイン事業に切り替えられたようです。
そして渋沢喜作の長男である渋沢作太郎について調べると、
・渋沢商店とは、1883年に作太郎が父から家督を相続した際に、
屋号を「渋沢商店」に称したという記録
(これは横浜本店のことか?他に存在していた支店の可能性もあります)
・1889年に喜作が生糸輸出で受取る洋銀の邦貨への換金取引で多大な損失を抱えてしまい、作太郎に会社を譲ることを条件に栄一が借金を肩代わりしたという逸話
・作太郎の没後は、次男である義一が渋沢商店を引き継いだという記録
などが残されており、
下平先生がお話しされた相手は、栄一・喜作・作太郎・義一の一体誰だったのか。
ますますわからなくなってしまいました(・・;)
(でも、作太郎に会社を譲ることを条件に借金を肩代わりした件は、下平先生の会社立て直しの出来事とよく似ていますね)
しかし、作太郎は1910年に48歳という若さで腎臓病で亡くなっており、
父の喜作も1912年に亡くなっています。
栄一が子爵の称号を授かったのは1920年で、
下平先生が“渋沢さん”とお話しをされたのは、関東大震災が発生した大正12年頃(つまり1923年以降)、
そして渋沢栄一は1931年に亡くなっているため……
「渋沢商店」は、朔太郎と喜作の没後、
栄一が一時的に、実質的な後見役のような立場になっていたのではないか、
と考えています。
その時期に、会社の危機に直面した下平先生が栄一と直接お話しする機会があり、
それが、義一が承継するまでの間の出来事だったのかも……?
素人なりに色々と調べてはみたのですが、
確信的な情報は得られず仕舞いとなってしまいました。すみません……
しかし下平先生を援助するとお話しをしたのが仮に義一だったとして、
義一は先生より歳上ではあるかと思いますが、さすがに「親戚関係でもない遠く離れた長野の製糸工場の負債をほぼ全て引き受け、存続の危機を救った」という、
自身の会社の危機にも繋がりそうな豪快な行動は取りづらいかとも思います。
なのでここは、時系列と下平先生ご本人の著書の記述を信じ、
屏風バトルを繰り広げた相手も、やはり渋沢栄一だったと考えることにします。(笑)
渋沢栄一氏についても、いずれきちんと勉強をして、
ここでノートにしてまとめようと思っています!
そこで偶然にも、下平先生の生涯とリンクするような情報を得られれば万々歳です。
偉人の人生を学び、その過程で、一見無関係に思えた人物の人生同士が繋がる瞬間を見る。
これこそが郷土史を学ぶ醍醐味なのではないかと私は思っています(*^ω^*)
裏付け情報の勉強は、今後も並行してやっていこうと考えていますので、
また新たな知見を得次第、加筆修正をおこなっていきます!
私はこの時の彼らの会話から、
「商人として大成する人には、どこか共通するものがあるのだろうな」と感じました。
お互いに、お金そのものより、会社や代表者である自身の名誉を傷つけまいと、商売人として……いや、人としてのプライドを守っていたように思うのです。
こうした性格が、大物になる人間の器なのかなあ。
なお、肭四先生曰くこの屏風は、
「戦災で焼かれなければ、今も残つていると思います」とのこと。
埼玉県深谷市に、渋沢栄一記念館や渋沢さんの生家がありますが、
あの鹿が描かれた屏風も現存していないか、いつか観に行って観たいと思いました。