1928年…二宮神社を小田原本社から正式な分社として迎える
昭和3年(1928年)2月。
下平先生は、二宮尊徳を題材にした映画を制作し、
さらに二宮神社を小田原の本社から、自身の工場へ正式な分社としてお迎えしました。
先生は
「どんなに文明の時代になつても報徳の教えというものは消えるものではない」
という信念を持っており、
この精神を従業員にも徹底しなければならないと考えていました。
神社は工場の入口に建立され、
従業員は全員がおまいり(原文ママ)をし、
報徳精神を工場の根本理念として日々働いていたのだそうです。
後年、先生は工場の一切を(著書執筆時点で)現在のオリンパス工場へ売却しました。※3
その際、二宮神社や二宮尊徳像、そして報徳の教えを刻んだ石碑などは先生のご自宅の入口へ移され、
以後は先生の家の氏神様として、大切にお祀りされていたそうです。※4
※3…「オリンパス工場へ売却」した元工場の場所
下平先生が後年、オリンパス工場へ売却したとされた「高木館下平製糸」の工場跡地についても調べてみました。
その前に「オリンパス」について少しご紹介しますと、
オリンパスは日本の医療機器メーカーで、創業当時は顕微鏡の国産化を目指して設立された企業です。
その後、世界初の実用的な胃カメラを開発したことでも知られています。

現在のオリンパス伊那事業所です。(出典:Google map)
オリンパスグループ企業情報サイトに掲載されている沿革(1919~1945年)を見ると、「長野県伊那町に工場を設立(1944年2月)」
という記載がありました。
伊那町とは、現在の伊那市の前身となる町であり、下平先生の著書の記述とも整合します。
また、Wikipediaには、
「1944年(昭和19年)春 – 製糸工場だった伊那工場を買収、光学兵器工場とする。」という記載があり、
さらに終戦後は伊那工場を顕微鏡工場として事業を再開したとされています。
私が伊那谷で学生時代を過ごした頃、「伊那のオリンパス」といえば、
西町の交差点から見下ろせるあの工場でした。
「移転した」という話は昔も今も聞いたことがないので、おそらく場所は変わってないかと思うのですが……
ここも、できるだけ史実に沿った検証ができるよう、当時の航空写真や地図なども探してみました。

こちらを、今流行りのAIでカラー化すると…

中央を横断しているのは天竜川で、左端には毛見橋が掛かっているのがわかります。その向こうにも、山の麓に川が流れているように見えなくもないですね。
となると三峰川?その後ろは、春近かな?
おそらくですが、春日公園のあたりから撮影されていると思われます。
オリンパスは、伊那(下平先生の工場)の他にも諏訪の製糸工場も買収して工場を作ったそうです。
先生の「工場の一切を…」という記述から、オリンパスは買収した工場の建物自体は当初再利用していたのではないかとも思います。
その場合、写真に映る広大な敷地も建物も、ほぼ全て下平先生の工場だったことになりますね。
写真中央に見える煙突も、いかにもボイラー設備を備えた製糸工場という感じがします。
では次に、航空写真を見てみようと思います。

↑こちらは戦後の1947年に米軍によって撮影された伊那市の航空写真です。
赤丸がオリンパス、緑丸が毛見橋です。
先生がオリンパスに工場を売却をしたのは1944年なので、この写真だとすでにオリンパス伊那工場となっているはずです。(出典元:地図・空中写真閲覧サービス)
↓そしてこちらが、「高遠ぶらり制作委員会」さんによって公開されている、
昭和18年(1943)の伊那街市街地図です。

1943年に作成された地図なので、この頃はギリギリ「高木館山本製糸」だったはずです。

やはり、広大な敷地をもつ現在のオリンパスは、
伊那工場が創業されてから位置は変わらず、敷地面積もほとんど変わっていないこと、そしてこの広大な土地を、下平先生が持っていたということがわかりました。
↓(おまけ・『今昔マップon the web』)

633.4という箇所が、下平先生の工場があった場所です。
この頃は「田んぼ」を表す地図記号がついています。
下平先生の叔父は駒ヶ根で「山本館製糸」を営んでおり、そして下平先生は南箕輪御子柴で自分の会社を設立しました。
オリンパスのある伊那市西町に工場を建てたのは、1923年の震災後の吸収合併後ですので、1911年だとちょっと時期が早すぎましたね。
元々は田んぼだったんだなあ。
※3…南箕輪にある「報徳二宮神社」との関連性について
下平先生が小田原の本社から分社として迎え入れたという”二宮神社”とは、
正式には「報徳二宮神社」といい、神奈川県小田原市の小田原城址内に本社があります。現在では、日本各地に分社が建立されています。
報徳二宮神社に祀られている御祭神・二宮尊徳翁は、江戸時代後期の農政家・思想家です。
「二宮金次郎」といえば、ご存じの方も多いのではないでしょうか。
薪を背負い、本を読みながら歩く銅像で知られる人物です。
両親を亡くした金次郎は、朝早くから夜遅くまで懸命に働き、わずかな時間も勉強に充てて家を立て直しました。
その後は各地で財政再建や領民救済、農村復興に尽力し、その功績から神として祀られるようになりました。
その「報徳二宮神社」が、長野県南箕輪村の南原にも建立されています。


ヘルメットを被っていらっしゃる……笑
敷地の隣が保育園だからかな?
南箕輪村といえば、下平先生の出生地。
しかも、工場をオリンパスへ売却した後は、神社を先生のご自宅へ移動させたとのことなので、この南箕輪村南原にある「報徳二宮神社」は先生と何か関係があるのではないかと思い、先日現地を訪ねてきました!
結論から申し上げると、
こちらの報徳二宮神社は、おそらく下平先生とは関係のない神社さんだと思われます。
南箕輪村南原の報徳二宮神社は、終戦直後、
食糧増産県営緊急開拓団として入植した南原開拓組合の人々が、心の拠り所として創建した神社なのだそうです。
神社創建にあたり、組合は沢尻恩徳寺の宥人和尚へ依頼し、高遠の樹林寺に保存されていた旧高遠藩上級藩士の神棚を譲り受け、そこへ二宮大神ほか七柱を祀りました。
しかし、開拓地には二宮尊徳翁をお祀りするのが最もふさわしいという結論に達し、昭和23年5月、組合の共有地に祠を建立して、「二の宮神社」と号しました。
その後20数年が経過し、中央自動車道の開通によって周辺は急速に宅地化し、人口も増加。これに伴い社殿新築を望む声が高まり、
昭和56年4月18日、区民の浄財によって建坪35㎡の新社殿が完成しました。


現在は天満神宮としてお祀りされています。
さらに、この新社殿建立を機に、小田原報徳二宮神社の末社として草山朝子宮司より正式に認証されたそうです。


……以上が、石碑に刻まれていた南箕輪村南原・報徳二宮神社の由緒と、
現地で撮影した写真です。
下平先生は戦前の昭和3年に、小田原の本社から直接分社として自身の工場へお迎えしているため、建立の経緯や年代が大きく異なることから、
現時点では、南箕輪村南原の報徳二宮神社は、下平先生とは無関係である可能性が高いという結論に至りました。
松本から南箕輪まで時間をかけて訪ねた結果、
今回の研究とは直接関係がないことが判明したわけですが……
それでも、南箕輪村の歴史を新たに知ることができたのは、大きな収穫だったと思っています!
私の目標は、いつか伊那谷、そして長野県全体の郷土史を深く理解することですからᕦ(ò_óˇ)ᕤ
それと余談なのですが、
この日、なんと『越えても越えても峠あり』の第1巻・第2巻を古本屋さんで購入しました!ヽ(*^ω^*)ノワーイ
第1巻は読了していたものの、記事を書いたり内容を確認したりするため、ほぼ毎週のように図書館へ通っていました。でも……
さすがに通いきれない!!
「もう買った方が早い!」と思いネットで探していたところ、
伊那市の「日日書房」さんで第1巻を、
高遠の「陽炎堂」さんで第2巻をゲットできました!!
(報徳二宮神社へ立ち寄ったのは、その帰りでした)
というか……2巻!?( ゚д゚)
見つけた時、びっくりしちゃいました。まだ続きがあったのか……!!
第1巻だけでもノート作りに毎日苦戦しているので、正直、ゴールがさらに遠のいた気もしますが……σ(^_^;)
でもなんだか、先生から新たな挑戦状を突き付けられたような気もして、
むしろ「やってやる!」という気持ちが強くなりました。笑
第2巻は、第1巻のノート作りと裏付け調査がある程度落ち着いてから取り掛かろうと思っています(^_^)v
その際も、またお付き合いいただけましたら嬉しいです!
↓ちなみに、南箕輪村南原の報徳神社に掛かっていた板の写真……
神社創設に浄財を寄せた人々のお名前が書かれているのだと思います。
もしかしたら下平先生のお名前も…?と思い撮影してみましたが、読めない…!!
おそらくは無関係だとは思いますが、記録のため残しておきます。


