自室にいても、家のどこにいても、ふと鼻をくすぐるのは、手作りの餡子の香り。
これが、我が家の匂いだった。
饅頭を蒸す蒸し器や、豆を煮込む大きな鍋が、早朝から休むことなく働く我が家では、
一年中、じんわりと温かな空気が漂っている。
そのあたたかい空気に乗って運ばれてくる、あの甘い香りが、私は何よりも好きだった。
シャンプーや、香水。
世の中には、いつも“流行り”の匂いというものがあって、
それは常に目まぐるしく移り変わっていく。
けれど、家に帰ればいつも変わらず漂っているこの香りだけは、
私の髪にも、心にも、深く染み付いていた。
まるで、私自身は変わらなくていいんだよと、
そう言ってくれているようで。
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我が家は曾祖父の代から続く、下町老舗の和菓子屋である。
父は、私が幼い頃に亡くなった。
腰を痛めてしまった祖父と、その介護を務める祖母に代わり、店を切り盛りしているのは私の母だ。
家事育児と店の経営をほぼ一人で担っている母を、幼い頃は尊敬していたものだ。
ただ、最近は口を開けば喧嘩ばかりしてしまっている。思っていることを、素直に口に出せなくなってしまったのだ。
今日も朝から、餡子の香りが充満している。
「ルミー!朝ごはん~!」
階下から母の声が響いてくる。
家業で鍛えられたのであろう活気の良いその声が、再起動中の頭に響いてイラッとくる。
「うっさいなもう……」
枕元に置いた目覚まし時計よりも、早い起床。
出番の無かったアラームを止めて起き上がる。
私、橋本ルミは、下町の商店街にある和菓子屋の長女だ。
二人姉妹で男がいないので、もしかしたらこの和菓子屋を継ぐことになるのかもしれないと思うと心が重い、中学二年生です。
「あ~、やっと降りてきた」
居間に降りると、母はそう言いながら私の分のご飯を茶碗に取り分けた。
「いっつもいっつも遅いのよ、起きてくるのが!」
テーブルには既に私以外の家族は全員揃っており、みんな先にご飯を食べていた。
「アミなんか呼んだらすぐ降りてきてくれるのに、なんでお姉ちゃんのあんたが遅いのよ~」
愚痴を言いながらもてきぱきと全員分の食事の配膳をする母に、心では朝からすごいなあと思うのに、
「うるさいなあ」
口から出るのは嫌味であった。
「うるさいって……本当のことでしょ!」
「ああもう、ハイハイ!お母さんの声、朝からキツイんだよ」
まだ何か言ってくる母を無視して席に着く。
今日は目玉焼きとサラダと味噌汁と……
饅頭だ。餡子の。我が家の朝食には、形が崩れて売り物にならない和菓子が毎日出される。
ちなみに夕食には、その日の売れ残りだ。
「ええ……また饅頭」
「またって、うちは和菓子屋です!小さい頃からずっと見てきてるでしょう」
ご飯の準備でおそらくまだ食事にありつけていない母が、ひょいと饅頭を頬張る。
「んー、今日もおいし」
幸せそうに笑う母を横目に、私は箸を持って「いただきます」と呟いた。
小さい頃は大好きだった饅頭も餡子も、最近は飽きを通り越して嫌いになりつつある。
「カロリー高いんだよ、和菓子って。私また太っちゃう」
「あなたねえ、そういうのは、あたしくらいのお腹になってから言いなさーい!」
母が叩くと、ばいーんと揺れる母の腹。
私は啜っていた味噌汁を吹き出しそうになりながら、「わかったよ」と頷いた。
母は、この家業を本格的に継いだ頃から、急激に太り始めた気がする。
「お姉ちゃん、中学生ってどんな感じ?」
隣に座る妹のアミが、細い腕で饅頭を頬張りながら聞いてくる。
アミは小学校6年生。この冬が終われば、春から中学生だ。
「どんなって……まあ、楽しいよ」
「ふうん。小学校と違って、いっぱいいるもんね」
地方の田舎町であるここは、商店街のある駅前のこの辺りはギリギリ栄えていても、
少し外れると一気に田舎に戻る。
住まいは駅前だが、学区の関係で町外れの小学校に通っているアミは、全校生徒が50人にも満たない環境から、1クラス30人が5組もある町立中学校が気になるようだった。
「お姉ちゃん、私も太っちゃう?」
細いアミがそんなことを言うもんだから、私は少し嫌味を言いたくなった。
「そうよ。朝からそんな高カロリーなものばっかり食べてたらお母さんみたいになるよ」
「えー!」
「ちょっとどういう意味よ~!」
「ごちそうさま」
ご飯半分、おかずも半分残し父のお皿にあけてリビングを出た。
後ろから母のため息が聞こえる。
せっかく母が早起きして作ってくれたご飯を、私は遅刻を理由にいつも残してしまっている。
本当は太りたくないだけの、ただ痩せ我慢なんだけど。
うちの居間は店と直結しており、襖を開けると店のカウンター裏、そして玄関兼店の出入り口に通じる。
一旦店のカウンター裏へ出て、そこから自宅のある二階へ続く階段を上り、洗面所へ向かう。鏡を見てはまた、私はため息を吐いた。
やっぱり太った。明らかに。
私も小学校卒業までは、妹のアミくらい細かった。
毎日出される売れ残りの和菓子に加え、中学に上がってからというもの、
ろくに運動をしていないからだろう。
小学生までは真剣に取り組んでいた体育ですら、中学生になると、本気でやるのがなんとなく恥ずかしくなって、周りに合わせて手を抜くようになった。
それのせいもあってか、体重が2年で10kgも増えた。
(成長期というのもあるんだろうけど……)
最近はこの顔や二の腕、お尻についたお肉が少し不満になってきている。
身支度を整えて、アミと一緒に玄関を出る。
「いってらっしゃい三人とも」
母はいつも、玄関の外にまでお見送りしてくれる。
その視線の先に、3人なんていない。
玄関ドアの横に飾られた、父の写真を含めているのだ。
その隣には、10年くらい前に撮った家族写真が飾ってあるのだが、
その頃の母のモデルのような体型と比べると、今のふっくら寸胴体型の母の姿を見て胸が苦しくなった。
このままこの生活を続けたら、自分もいずれそうなってしまうのだろうか。
「……父さんって、罪が大きいよね」
なんとなくイラッとした私は、写真の中の父を睨みつけてやった。
学校に着くと、掲示板の前に人だかりができていた。友人を見かけたので声をかける。
「おはよう、みんな何見てるの?」
「ああ、ルミおはよ!今回の数学のクラス分けらしいよ~」
皆が見上げる掲示板には、この間行われた一学期期末テストの結果からAからEまでのクラス分けが貼り出されていた。
Aの欄に書かれた橋本ルミの文字に、とりあえず安堵する。
うちの学校は1学年の時から、数学と英語だけは学力別でクラスが分かれるシステムがある。
なので普段は1組、数学の授業時だけCクラスで3組の教室へ行くというような形で、学年のほぼ全員がシャッフルで移動する。
私は数学だけが取り柄の人間なため、今回もAに入れたことに胸を撫でおろした。
そうこうしているうちに、今期最初の数学のクラス別授業が始まった。
教科書、ノート、ペンケースを持って1組に行く。
黒板には席順の紙が貼り出されており、生徒の何人かは既に席に着いていた。
(とりあえず隣の席の子は……)
席は組ごとに縦列、机は男女別で座ることになっている。
1組の私は、2組の最後の出席番号の男子と隣の席になっていた。
名前は吉田というらしい。
「……」
ぞろぞろと空席が埋まっていく。
移動時間の終了もそろそろだというのに、一向に埋まらない隣の席を心配していると、
ふと窓側から視線を向けられていることに気が付いた。
そこには二人組の男子がいて、一人はカーテンに包まり、こちらを見ながら何やらヒソヒソと話し込んでいた。
(……私のこと?)
見知らぬ男子達からの、見覚えの無い陰口?に若干不快になっていると、とうとう本鈴が鳴り、そのうちの一人が私の隣の席についた。
もう一人は、その前の席に座る。
この人が吉田か。
吉田に対し私が初めて持った印象は、その鬱陶しい前髪だった。
彼は、こちらをチラチラと見ながらも、目だけは合わせようとせず、
その度に揺れる彼の長い前髪に私の方が鬱陶しさを感じてしまった。
(なんだコイツ……)
今日の授業は、前回の中間テストの答え合わせだった。
隣の席とテスト用紙を交換し合い、間違えた箇所を確認し、
正答だった方が出来るだけ自身の力で相手に解説を行う。わからない場合は先生を呼んでも可。
「えーと、はしも、橋本サン」
「あっ、はい」
思わず敬語で返事をしてしまったが、そういえば2学年とはいえ、彼と話すのは今日が初めてだ。
「……あれ、私の名前を知ってるの?」
「あ、いや、えっと、あ、和菓子屋!和菓子屋やってるよね」
「ああ、そうだけど……」
挙動不審なほどに緊張する吉田に、更に不信感が募る私。
「俺さ、昔行ったことあるんだよね」
「ああ、そうなんだ。ありがとね」
一応ニコッと笑って見せると、初めてこちらを向いてくれた吉田と目があった。
「……?」
「……あっ、いやっ、えー、こちらこそどうも」
また長い前髪をいじりながらテスト用紙に赤ペンを落書きをする吉田を、私は眉を顰めつつ横目で見た。それ、私の紙なんだが。
吉田は、今回Aクラスで2人しかいない100点獲得者だった。
私はテスト当日も朝食を抜いたせいで本調子が出せず、82点。
おそらくこのクラスの中では中~下あたりの成績だろう。
吉田は、普段の話し方からは想像ができないほど、
教え方だけは非常にわかりやすい人だった。
「おれ勉強は得意なんだよね」
吉田がへへっと笑うと、先ほど彼の前の席に座った男子がこちらを振り返った。
「なに橋本さんとラブラブしてんだよ吉田~。お前ここ教えろよ」
彼から紙を受け取り、隣の吉田が問題を解いていると、前の席の彼が私に声をかけてきた。
「橋本さんでしょ?俺、吉田。こっちも吉田。
クラスも2組同じでややこしいから、出席番号で覚えて。
オレ31番でそいつ32番ね。よろしく~」
「あ、うん……よろしく……」
「はしもっちゃん和菓子屋なんでしょ?」
はしもっちゃん。唐突に馴れ馴れしいが、不快じゃない。
「えっ、ああ、うん」
「いいな~、じゃ、家では食べ放題?」
「ああ、まあ……飽きちゃって最近は食べてないけど」
「こっちの吉田がさ、好きなんだって」
ピッと親指を指された先、隣の吉田がビクッと顔を上げる。
「おまっ、何言って!」
「えー?好きでしょ?」
みるみる顔を真っ赤にする隣の吉田に、前の吉田はクックッと笑った。
「和菓子のことね」
そろそろ先生が怒ってきそうなタイミングで前の吉田は、それだけ言い残すと前に向き直った。
残された吉田はしばらくぽかんとしていたが、慌てて私の方を向く。
「わっ、和菓子な!!」
「そこうるさーい」
先生の声が飛んでくると、吉田は更に顔を真っ赤にして俯いた。
「……」
なにをそんな、必死に。
隣の方の吉田は、何故か私限定で緊張と挙動不審が発動するタイプのようだった。
(私、なにかしたかな……)
わからない問題があると言って吉田に声をかけた、通路を挟んだ向こうに座る女子には流暢に解説をする吉田に、私はただただ首を捻っていた。
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