1937年7月…支那事変の勃発
昭和12年7月。その日の夜、
下平先生は小学校で演説をしている最中に、支那事変が勃発したとの電報が入ります。
間もなく動員令も発せられることとなり、
世の中は一気に戦時色を強め、戦争への意識が社会全体に広がっていきました。
先生は、この支那事変にどう向き合い、町として何をすべきかを考え、
次の3つを最も重要な方針として掲げます。
第一に、銃後の守り。※
第二に、出征軍人の家庭を守ること。
第三に、戦死者が出た場合、その遺族を十分に保護すること。
この3つを町民全体に徹底させるため、
先生は各地で演説を行って回ったのだそうです。
「銃後の守り」とは?
「銃後の守り」とは、戦場の後方から戦争遂行を支えるという考え方です。
前線へ多くの兵力が動員されると、国内では労働力不足や社会の混乱が生じます。
そのため、直接戦闘には参加しない人々も、軍が必要とする物資や資源の生産・供給などの後方支援に携わり、国内産業や社会体制を維持することが求められました。
国全体で戦争を支えるこの体制は、第一次世界大戦以降、戦争が国家総力戦の形態を取るようになったことでその重要性が増し、日本全国へと広がっていきました。