叔父の工場へ出戻るも、またまた喧嘩。次の峠へ……
こうした経緯もあり、「株屋にいてもいけないから工場へ帰れ」という勧めを受けた肭四先生は、上伊那銀行(現・八十二銀行)の頭取らの支えもあり、再び叔父の製糸工場へ戻ります。
しかし、先生は叔父と再び口論になり、
「おまえはまだまだ他人の飯が食い足りないぞ」
「そうかね、それじゃまた出ていきます」
こうして先生は、再び叔父の工場を後にしました。
その後、仲介により諏訪の大和組製糸社長・片倉島吉さんの会社(現・株式会社ヤマト)へ入社し、栃木県の西那須野分工場で勤務することになります。
先生は出身や家柄、教員歴などを一切隠し、「農家の生まれで小学校卒業のみ」と名乗って入社。製糸の知識もない新人として、事務員を務めながら雑巾掛けなどの雑務もこなしました。
しかし心の中では、
「ここで一生終わるのではなく、もっと出世しなければならない」
と考えていました。
仕事が終わると、経済・法律・歴史の本を東京から取り寄せ、消灯後は繭の乾燥場へ布団を持ち込み、約2年間、毎晩夜中まで勉強を続けます。
本や新聞は、工場近くの店を営む「おしもさん」に頼み、塀越しに届けてもらっていたそうです。
やがて工場法の講習では県庁職員から高く評価され、
その実力は次第に工場長や社長の耳にも届くようになりました。
「どうも高木はおかしい。ただの百姓ではないぞ」
(※当時の原文に基づく表現です)
本社が調査した結果、先生の実家が村一番の資産家であることや、教員歴、簿記・法律学校で学んだ経歴などが判明。
待遇が一変し、専務の近くの席へ移され、雑巾掛けなどの雑務も任されなくなりました。
肭四先生はこの頃を振り返り、
「これから後は非常に楽になってきました。人生の大修養(原文ママ)でもあった」
と記しています。