軍馬慰霊碑とは、戦時中に軍へ徴発され、輸送や騎乗などに従事した馬たちを慰霊する石碑です。
今回訪れたのは、松本市の今井小学校と塩尻市広丘の歌碑公園に建立されている軍馬慰霊碑ですが、
このような碑は靖国神社をはじめ全国各地に建立されています。
日本兵と軍馬
軍馬とは、戦時中に騎乗のほか、武器や物資の輸送などに用いられた馬たちのことです。
人間よりも速く、多くの荷を運ぶことができたため、第一次世界大戦をはじめ、
その後の日中戦争や太平洋戦争初期においても重要な役割を担っていました。
とくに騎兵は、かつて陸軍の花形とも言われていましたが、
太平洋戦争が激化するにつれ、戦況は次第に戦車中心へと移り変わっていきました。
それでも、第二次世界大戦下において、
長野県から多くの兵士が出征した佛印派遣討第四二三七部隊をはじめ、
各地の戦場で軍馬が利用されていた記録が残されています。
日本兵たちの後悔
戦争体験者の手記や日記を読んでいると、軍馬に関する記述を少なくありません。
激しい戦闘や悪天候の中を共に行動したこと。
敵軍に捕獲されることを避けるため、やむを得ず自らの手で軍馬を撃たなければならなかったこと。
あるいは、置き去りにしてしまったこと。
そうした出来事を何十年経っても忘れられず、後悔の念を綴る元兵士の言葉を目にすることがあります。
人と馬の歴史は古く、農耕や輸送、そして軍事に至るまで、人々の暮らしは長く馬に支えられてきました。
現在では、移動は自動車や電車、そして戦いにおいても戦車が当たり前となり、
生活の中で馬を見かけることはほとんど無くなりましたが、
ほんの数十年前まで、人は馬と共に生き、戦場へ赴いていたのです。
戦争というと、多くの人々の犠牲に目が向けられますが、その陰には、
こうした動物たちの働きと犠牲も確かにありました。
このような石碑を見かけるたび、言葉を残すことのできなかった彼らの歩みを、
慰霊碑が今も静かに語り継いでいるように感じます。
歌碑公園の軍馬之碑(塩尻市広丘)

塩尻市広丘の歌碑公園には、忠魂碑のすぐ隣に佇む『軍馬之碑』があります。


こちらは神武天皇即位2600年にあたる1940年、紀元二千六百年記念事業の一環として、
廣丘村(現在の広丘地区)の在郷軍人によって建立されたようです。
石碑の刻字は陸軍大将・松井石根のものです。
建立当時は日中戦争のさなかであり、軍馬の犠牲も増加していました。
そうした時代状況から、中支那方面軍司令官を務めた松井大将の揮毫が選ばれた可能性も考えられます。
今井小学校の軍馬慰霊碑(松本市今井)

こちらは小学校の敷地内にあり、
同じく忠䰟碑(「䰟」は「魂」の異体字)の隣奥にありました。
遠くから撮影をさせていただいたため、
近くでみることはできず、詳細が不明でしたが……
他の方Googleマップレビューより、
建立時期は昭和14年10月、
今井村の在郷軍人会によるものだと判明しました。
揮毫は、栃木県出身の軍人援護会会長だった奈良武次(ならたけじ)のもののようです。