
辰野町。
伊那谷の最北端に位置するこの町は、日本最大級のゲンジボタルの生息地として全国的に知られています。
日本最古の道祖神は、沢底に。
また、国内外で数々の賞を受賞している日本酒『夜明け前』や『頼母鶴』を醸す小野酒造があり、夏の「ほたる祭り」で流れる『ほたる小唄』は、あの島倉千代子さんが歌ったことでも有名です。
そんな豊かな自然と歴史に恵まれた、私が生まれ育ったこの小さな町には、
私が生まれるずっとずっと前、
戦艦『大和』最後の艦長・有賀幸作海軍中将もまた、生まれ育っていました。
本日は、有賀中将の生涯と、
その功績を後世へ伝える2つの神社仏閣をご紹介したいと思います。
有賀幸作海軍中将とは?…「エントツ男」と呼ばれた艦長

有賀幸作(あるがこうさく)海軍大佐(戦死後に中将へ特進)は、
戦艦『大和』最後の艦長として知られる人物です。
南信では珍しくない「あるが」という苗字ですが、全国から軍人が集まる海軍では難読とされることが多く、何度も読み方を聞き返されるのを面倒に思われたため、
軍では「ありが」と名乗っていたそうです。
1897年(明治30年)8月21日、有賀中将は辰野町で4人兄弟の長男として生まれました。
幼い頃から活発な性格で、父の作太郎と同じく軍人を志します。
なお、ご実家は『平野屋』という金物店でした。
父・有賀作太郎は、合併前の朝日村の村長を務め、
1904年の日露戦争では、二〇三高地の戦いで功績を挙げた勇士でもありました。
しかし、そのような父でありながら、息子の軍人志願には反対していたそうです。
それでも有賀中将は父の反対を押し切り、
諏訪中学校(現在の諏訪清陵高校)を卒業後、海軍兵学校へ進学しました。
ちなみに、有賀中将と同じく辰野町出身で、幼なじみだった軍人に古村啓蔵海軍少将がいます。
古村少将も諏訪中学校卒業後に海軍兵学校へ進学しましたが、
その際の保証人は、有賀中将の父・作太郎が務めたのだそうです。
卒業後、有賀中将は駆逐艦『水無月』の水雷戦隊指揮官として軍歴をスタートさせました。
その後は、
・1922年 戦艦『長門』四番砲台長
・1923年 海軍大尉へ昇進
・1924年 駆逐艦『秋風』、軽巡洋艦『神通』『那珂』『木曾』の水雷長を歴任
・1929年 駆逐艦『夕顔』艦長として初めて艦長職に就任
・1940年 海軍大佐へ昇進
と、着実に経験を積んでいきます。
なお、1927年には軽巡洋艦『神通』水雷長として、美保関事件も経験しています。
美保関事件とは、夜間演習中に複数の艦艇が衝突し、100名以上の死傷者を出した日本海軍史上最大級の事故です。
美保関事件については、よろしければ以下のノートもご覧ください。
有賀中将と同じく、長野県出身の軍人が主要人物となっています。↓
その後も『芙蓉』『太刀風』『秋風』『松風』など、多くの駆逐艦で艦長を歴任し、
1934年には、当時最新鋭で第一線級戦力だった駆逐艦『電(いなづま)』艦長に就任しました。
さらに1938年には第一掃海隊司令として日中戦争に従事し、
その戦果から、中国側によって懸賞金が掛けられ、その額も次第に引き上げられていったとも伝えられています。
太平洋戦争開戦後は、マレー作戦、ミッドウェー海戦、
ソロモン沖海戦など数々の激戦に参加しました。
『大和』艦長の最期
1944年12月、
有賀中将は、戦艦『大和』第五代艦長に就任します。
『大和』艦長への任命がよほど嬉しかったのでしょうか。
有賀中将は、本来であれば秘匿艦として暗号で記さなければならないところを、
ご子息宛ての手紙に「大和艦長 有賀幸作」と、堂々と艦名を書いて送られていました。
そしてその手紙には、「死に場所を得て」という言葉も綴られており、
ご子息はその時、父である有賀中将の覚悟を感じ取られたそうです。
また、この頃の日本海軍は深刻な燃料不足に陥っており、有賀中将自身も、『大和』を十分に航海訓練させることができない状況にありました。
幼なじみであり、後述する坊ノ岬沖海戦で軽巡洋艦『矢矧』の第二水雷戦隊司令官を務めた古村啓蔵に対し、「燃料不足で主砲の訓練さえできない」と弱音を漏らしたという逸話も残されています。
そして1945年4月7日、坊ノ岬沖海戦(天一号作戦)が決行されます。
日本軍は、『大和』を含むわずか10隻の艦隊で出撃したのに対し、
米軍は戦艦6隻に加え、894機の艦上機を搭載した空母12隻、巡洋艦11隻、駆逐艦30隻という圧倒的な戦力を投入しました。
激しい空襲と雷撃の末、
午後2時20分、『大和』は大爆発を起こして沈没しました。
現在、『大和』は鹿児島県坊ノ岬沖、海底約350メートルの海底で、
有賀幸作中将はじめ、多くの英霊たちとともに眠っています。
享年、49歳でした。
有賀艦長らの戦死を受けて、天一号作戦は事実上失敗、終結します。
そして有賀中将は、戦没の4月7日付で、大尉から中将へと特進されました。
豪放磊落で多くから愛されたリーダー
私にとって有賀中将は、数多くの歴史上の人物の中でも、
とりわけ尊敬している方のお一人です。
それは単に、「同郷の人物だから」という理由だけではありません。
有賀中将の人柄や生き様、そして大切にしていた矜持を、
彼の周囲にいた多くの人々が数々の証言を残しているからです。
次は、そうした逸話を通して、
有賀中将がどのような人物だったのかをご紹介していこうと思います。
「戦があれほど上手い人はいなかった」、
「絶対にやられることはないと思った」、
「困った顔を見たことがない。安心できた」……
戦後に組織された戦友会でも、有賀中将の評価は非常に高いものでした。
戦闘では率先して前線へ出ることが多く、元帥海軍大将であるあの山本五十六から
「有賀を殺すな」と心配までされたほどだったようです(^◇^;)
実は有賀中将は、1943年に重巡洋艦『鳥海』艦長として南方戦線に赴いた後、
1944年4月にデング熱を患い、内地へ帰還しました。
その後、横須賀水雷学校の教頭を拝命します。
しかし有賀中将は、机上の理論よりも実戦経験を重視する人物でした。
そのため、この栄転を心から喜ぶことはできなかったようです。
そして半年後の1944年11月、戦艦『大和』艦長に任命されます。
長らく前線復帰を望んでいた有賀中将にとって、この辞令は何より嬉しいものだったことでしょう。
また、駆逐艦『電』艦長だった頃には、
後に12代自衛艦隊司令官となる山本啓志郎氏が通信士少尉として、有賀中将の下に着任していました。※1
有賀中将は、本来自分がやるべき当直将校と哨戒長を山本氏に一任し、さらには艦の操縦まで彼に任せたのだそうです。
事故が起きれば、艦長である有賀中将の責任になる事例です。
しかし有賀中将は、自身の立場よりも後輩の教育を優先したのでした。
さらには、上級司令部から届く通達や戦策にも積極的に触れさせるなど、徹底して山本を鍛えられました。
山本氏は後年、有賀中将に仕えたことを神に感謝したといいます。
※1…自衛艦隊司令官とは?
自衛艦隊司令官とは、海上自衛隊の自衛艦隊を指揮する最高責任者で、
幕僚長に次ぐ第2位の地位にある役職です。
防衛大臣の指揮監督を受けつつ、隊務全般を統括しています。
旧日本海軍で言うと、連合艦隊司令長官に相当する役職になります。
例えば東郷平八郎や、山本五十六などがそうです。
有賀中将が育て鍛えた後輩が、今の海上自衛隊のトップを務めていたのです!
そして、ジャワ攻略戦後には敵兵を救助し、
ミッドウェー海戦では、大破した味方艦の乗組員の救助を命じたという、
人情味あふれる逸話も残されています。
「これが駆逐艦乗りか」と感嘆の声を漏らした『夕顔』の航海長、
「部下を可愛がり、怒ったことはなかった」、
「部下がタバコをかすめたことに気付いても何も言わなかった」……
そして極め付けは、坊ノ岬沖海戦へ出撃するわずか2日前、
4月5日に開かれた無礼講の宴会での出来事です。
酩酊した1人の士官に「木魚が来た!」と頭をペチペチ叩かれても、
有賀中将は高笑いをして青年士官の無礼を許したという逸話まであります……
有賀中将は帽子の下は立派な坊主頭で、いつも煙草をくゆらせていたことから、
「エントツ男」という愛称で親しまれていました。
とはいえ、「木魚」……(^^;;
しかも相手は青年士官、有賀中将は艦長です。
現代の会社で言えば、平社員が課長の頭を叩くようなもの。
陸軍ほどではないとはいえ、海軍も上下関係には厳しい組織でした。
それでも笑って許し、後輩を育て、部下を可愛がり、上官からも厚い信頼を得ていた――
私は、そんな有賀中将を心から尊敬しています。
部下からも上司からも愛された有賀幸作海軍中将。
当時としては非常に珍しいタイプの指揮官だったと思いますが、その姿は現代にも通じる、理想のリーダー像ではないでしょうか。
次のページからは、辰野町に残る有賀中将ゆかりの神社仏閣をご紹介します!