
松本市神田には、住宅街に囲まれるように、
曹洞宗の寺院・自性院(じせいいん)が佇んでいます。
この自性院さんには、「美保関事件」で知られる海軍大佐・水城圭次氏のお墓があります。

美保関事件の責任を負い、自ら命を絶った水城大佐。
その生涯は、現在でもさまざまな角度から語られています。
本日は、自性院へのアクセスや境内の素敵な様子とともに、
美保関事件の責任を負い、自ら命を絶った松本市出身の海軍大佐・水城圭次氏について
綴っていこうと思います。
自性院へのアクセス

Googleマップのナビ通りに進むと、
車では通り抜けが難しい細い道を案内される場合があります。
実際はその先にあるため、車で訪れる場合は、少し遠回りをして周り込む形になります。


門を抜けて右側のグラウンドが駐車場になっています。
結構広めなので、余裕を持って訪れることができると思います。


おしゃれで可愛らしいお地蔵さんや七福神がお出迎えてしてくれます!


境内にはほかにも、仏様や龍の彫刻があり、
どこも丁寧に手入れが行き届いていて、とても綺麗に整えられていました。




ご本堂の右側には、梵鐘と鐘楼があります。

前身となる鐘は、太平洋戦争中の金属類回収令により供出され失われてしまったそうですが、現在は寄進により『平和の鐘』として再建されています。
次は、水城大佐についてご紹介していきます。
水城海軍大佐とは?
水城圭次(みずしろけいじ)海軍大佐は、日露戦争にも従軍した海軍軍人です。
1883年(明治16年)11月10日、現在の松本市中山に生まれ、
松本中学校(現・松本深志高校)を卒業後、
1904年、海軍兵学校卒業とともに少尉候補生となり、日露戦争へ出征しました。
1905年には海軍少尉に任官し、
海軍大学校乙種、海軍砲術学校で学んだ後、
防護巡洋艦『筑摩』分隊長、
防護巡洋艦『秋津』砲術長、
砲術学校教官などを歴任。
1917年11月に、海軍大学校(甲種)を卒業しました。
順調なエリートコース
水城海軍大佐は、当時「砲術の専門家」として知られた人物でもありました。
海軍大学校卒業の翌月には砲術学校教官となり、その後は参謀職も歴任。
1920年12月には海軍中佐へ昇進します。
そして海軍大学校教官などを務めた後、
1924年には41歳という若さで海軍大佐へ進級しました。
(※当時、大佐へ進級する軍人の平均年齢は50代だったとされています。)
その後の1926年には、軽巡洋艦『名取』の初代艦長を務めました。
美保関事件と、水城大佐の自刃
こうして、順調なエリートコースを歩み続けると思われた水城大佐ですが、
ここで、時代の激流が生み出した悲劇の当事者となる出来事が起こります。
それは、水城大佐が軽巡洋艦『名取』に続き、
軽巡洋艦『神通』の艦長を務められていた1927年8月24日のことでした。
水城大佐が指揮する『神通』が、夜間演習中に駆逐艦『蕨』と衝突。
さらに、それを避けようとした軽巡洋艦『那珂』と駆逐艦『葦』も衝突し、
119名もの死傷者を出す「美保関事件」が発生してしまったのです。
水城大佐は、この事故の責任を問われて軍法会議に付されることとなりましたが、
判決を待つことなく自刃。
享年44歳でした。
夜間演習の背景、海軍軍縮条約
事故の4年前である1923年。
第一次世界大戦で戦勝国となった日本を含む連合国は、戦争における戦艦の重要性を認識し、自国の海軍の軍備力増強を進めていました。
しかし、この軍備拡張は各国の国家予算をかなり圧迫させていました。
日本も八八艦隊という計画を立てていましたが、これも日本の国家予算の1/3に及んでおり、かつその維持にも毎年巨額の負担が強いられる予定だったのです。
ここでアメリカ大統領の提案により、
日本を含む五ヶ国(アメリカ、イギリス、フランス、イタリア)が互いに建艦競争を抑制させる、ワシントン海軍軍縮条約を締結することになりました。
この条約の締結により、日本も主力艦と空母の保有量を大きく制限されたため、
日本海軍内部では個艦優秀主義の思想が強まり、
「量で劣るなら、練度と精神力、そして優れた射撃や操艦技術で補おう」
という方針が取られました。
そうして始まったのが、日本海軍による「月月火水木金金」の猛特訓と、
軍縮条約で制限の対象外となった巡洋艦や駆逐艦、潜水艦などの補助艦艇や水雷戦術の質の向上、そして夜戦の強化だったのです。
事故の詳細
事件の日は、島根県の美保関沖で徹夜の演習が行われていました。
この日の演習内容は、夜間に航行する戦艦部隊に対し、
駆逐艦などの水雷戦隊が攻撃を仕掛けるというものでした。
恐ろしいのは、23時という真夜中に行われたこの演習が、無灯火というルールで実施されたことです。
真っ暗闇の艦隊の先頭を進んでいたのは、水城大佐率いる軽巡洋艦『神通』。
これが敵に見立てた戦艦部隊に発見され、砲撃の代わりとなる探照灯の照射を受けた直後でした。
『神通』が待避行動をとった際に、暗闇の中で発見が遅れた駆逐艦『蕨』の中央部を突き破るように衝突してしまったのです。
この衝突で『蕨』は艦体が真っ二つに折れて爆沈し、
さらにそれを避けきれなかった軽巡洋艦『那珂』と駆逐艦『葦』も次々と巻き込まれる、
多重衝突事故へと繋がってしまったのです。
事故の後、犠牲となった兵士の遺体が13kmにも渡って海上に浮遊していたという新聞記事も残されています。
水城大佐は砲術に優れていた一方で、事故当時には両耳に難聴を抱えていたともされ、
これも事故の遠因の一つだったという見方もされています。
また、爆沈という、4艦の中でもっとも悲惨な最後を遂げた『蕨』の艦長は、
海軍大学校時代の水城大佐の教え子だったとも言われています。
事故発生時、山本五十六は、部下が水城大佐の死を非難した際、
「死をもって責に任ずるということは我が武士道の根本である。
その考えが腹の底にあればこそ人の長としてもお勤めができる」
と部下を戒めたと伝えられています。
水城大佐が感じた責任
私は、水城大佐の最期は、単なる責任逃れではなく、
当時の価値観の中で「人の上に立つ者として責任を取る」という覚悟の表れだったのではないかと感じています。
実際、彼は軍法会議でも「すべて自分の責任」と供述しています。
戦艦『榛名』建造時にも、試験運転の遅延を受けて工作部長が自刃した事例がありました。
現代とは異なる価値観ではありますが、当時の日本には、
責任や覚悟を命を懸けて示そうとする文化が、確かに存在していたのです。
一方で、海軍へ過重な訓練を課した当時の加藤寛治艦隊司令長官や参謀長には、
この事件の責任を問われることはありませんでした。
むしろ「米国には勝たねばならぬのだ」と、
引き続き猛訓練を行う決意を示したのだそうです。
なお、ワシントン海軍軍縮条約締結の際、
この加藤司令長官に「訓練に制限無し」と激励し、日本海軍を個艦優秀主義に強く後押ししたのは、あの東郷平八郎元帥だとされています。
軍縮条約には様々な見解がありますが、当時の日本は、「不平等な主力艦保有比率だ」と感じていました。
海軍内部では対立が生じ、そして軍縮条約の締結によって、第一次世界大戦で日本が獲得した権益の一部返還も余儀なくされたことで、国民の間にも不満が溜まっていったのです。
そしてこの軍縮条約ですが、
その後も激動の世界情勢によって修正、拡張が行われましたが、
結局1938年には実質的に失効し、その後の世界は制限の無い軍艦建造競争の時代に突入。
世界は再び大規模な軍備拡張へと向かい、
やがて第二次世界大戦へと突き進んでいきます。
水城大佐は、この事件の責任を負って自害されたとされていますが、
このように美保関事件は、特定の誰かの責任だったとは言い切れないほど、
非常に多くの事情と人物が深く関わっています。
また、そもそも夜戦において敵味方双方が完全無灯火という状況に至るということは実戦でも考えづらく、これを演習内容としたことにも国内から多くの批判を招きました。
美保関事件とはまさに、当時の世界情勢や時代特有の雰囲気、
そして物理的な戦力が制限された中で、その不足を精神力で取り戻そうと信じて突き進んだ努力など、
様々な事情の組み合わせによる結果、起きてしまった悲劇だと私は考えています。
現在は、当時と比べれば自由で平和な時代になりましたが、その一方で、
自分自身の責任や覚悟、そして平和について改めて考えさせられました。
水城大佐のお墓について
水城大佐のお墓は、後ろに平和の鐘が見える位置にございました。
鐘は、遠慮して撞くことはできませんでしたが、ご本堂にて、美保関事件の全ての被害者と水城大佐のご冥福と、そして世界の平和を祈り手を合わせました。
この地区一帯を見守るかのように、静かに佇む自性院さん。
境内に入ると、自然と心がすっきりするような、晴々しい気分になります。
また機会を作って訪れたいと思ったご寺院でした。

※なお、水城大佐の墓碑は、有志による建立で東京都の多磨霊園にもありますが、
自性院さんにあるお墓は、現在もご遺族・ご親族と同じ区画にある個人墓です。
訪問される際は区画内へは立ち入らず、外から静かにお参りするなど、ご配慮をお願いいたします。