A級戦犯とされた7人が眠る墓所 ― 殉国七士廟とは?

皆さんは、殉国七士廟(じゅんこくしちしびょうをご存知でしょうか?

愛知県の三河湾を見下ろすこの廟には、
第二次世界大戦後の極東国際軍事裁判において、A級戦犯とされた7名が祀られています。

本日は、この殉国七士廟の歴史についてご紹介しようと思います。

殉国七士廟とは

殉国七士廟は、愛知県西尾市西幡豆町にそびえる三ヶ根山(さんがねさん)の山頂にあります。

その廟の地下には、死刑判決を受けた7名の遺骨が実際に納められているとされています。

東条英機

武藤章

松井石根

土肥原賢二

板垣征四郎

木村兵太郎

広田弘毅

歴史に詳しい方なら、彼らの経歴とともに、
この三ヶ根山との間に直接の縁がないことにお気づきかもしれません。

なぜ彼らは、この愛知県の山頂に祀られることになったのでしょうか?

今回、寄付のお礼としてパンフレットをいただきましたので、
これらを参考にしながら、
まずは、殉国七士廟がどのような経緯で建立されたのかについてご紹介したいと思います。

 

遺骨奪還に奔走した男たち

時は、昭和23年11月12日に遡ります。
この日は、東京裁判において上記7人に死刑判決が言い渡された日でした。

戦後から3年が経つこの日。
小磯國昭元首相の弁護を勤めた三文字正平(さんもじしょうへい)という弁護士先生が、
東條英機元首相を担当したブルエットさんというアメリカ人弁護士と偶然再会します。

ブルエット弁護士は、GHQの元帥であったマッカーサーへ、
「戦犯者が処刑されたとき、彼らの遺体を家族に渡してほしい」と願い出ていたのですが、その際マッカーサーは返事をしなかったと、そう三文字弁護士に言いました。

東京裁判が始まるちょうど1ヶ月ほど前から、同じくドイツが敗戦国としてニュルンベルク国際軍事裁判が並行して行われており、
この時もドイツの戦犯者の遺骨は遺族の元へは戻らず、粉砕したものを飛行機で海に散骨するという処置が取られていました。

――このままでは、日本も同じ処置を取られるだろう。

なんとかして、7人の遺骨だけでも取り戻したい。

そう強く願った三文字弁護士に、一筋の希望となる知らせが舞い込みます。

裁判にも関与し、懇意にしていたアメリカ人検事から、
「刑の執行はクリスマスの前、巣鴨拘置所で行われる」ということを耳にしたのです。

そして火葬は、横浜市久保山の市営火葬場。
この頃、久宝山火葬場は米軍関係者用に使用されており、日本人は遺族でさえ立ち入ることはできませんでした。

三文字弁護士はすぐに、久保山にある興禅寺のご住職・市川伊雄(いちかわいゆう)さんに相談。そして、7人の遺体が火葬される火葬場の飛田場長にも話が伝わり、
遺骨の奪還に協力してもらえることになります。

そして、12月23日の午前0時。
巣鴨拘置所において、7人の死刑が執行。

その日の朝。7人の遺体は、
東京から横浜の久保山火葬場へと送られます。

武装した米兵たちが周囲を取り囲み、非常に厳重な警戒体制が敷かれる中、
場内に入れたのは3人の火夫と、飛田場長だけでした。

彼らは米兵の厳しい監視の元、白骨化した7人の遺骨の処理を担当しましたが、
その隙に遺骨の一部を骨壷に入れ、隠すことに成功しますが、
隠し場所にお香を炊いたことで米兵にばれてしまい、骨壷は没収されてしまいます。

盗まれた遺骨を没収した米兵でしたが、遺骨本体はすでにトラックに積み込んでしまっていました。
そこで米兵は、7人の遺骨を粉砕してまとめて1つに混ぜると、引取り手のいない者の骨捨て場へ遺棄していきました。

飛田場長からこの報告を受けた三文字弁護士は、市川住職とともにすぐに久保山火葬場を訪れます。

骨捨て場の深さは3m以上。
しかし、火葬されたばかりの真新しい骨があったのが目視できました。

三文字弁護士たちは、投入口の上に置かれた花立をどかすと、
火かき棒の先に空の缶をくっつけ、それでなんとか、7人の遺骨と思われる真っ白な骨を掬い取り、それを一つの骨壷いっぱいに収めました。

ただ、火葬したばかりのお骨というのは、本当に真っ白なので、
飛田場長らは米兵にまたばれてしまうことを恐れていました。

そこで彼らは、「上海で戦死した三文字弁護士の甥のご遺骨」として、市川住職の興禅寺で預かっていただいたそうです。

それから半年後の4月。
遺骨奪取の件はその後どこからも問題とはならなかったため、
市川住職と話し合い、三文字弁護士は松井石根陸軍大将のご自宅にて、7人のご遺族と面会しました。

そこで、一つに納められたご遺骨を7等分して分けようとしましたが、
東條英機元首相の奥様より
「誰かに探知されてしまったら、非常にご迷惑をおかけすることになる。
このまま当分はどこかに預けていただいて、時期到来を待ってから分けていただきたい」と言われ、7人のご遺骨が入った骨壷は、その後10年、
松井大将が建立された興亜観音堂(静岡県熱海市伊豆山)へと安置されることになりました。

 

殉国七士廟建立までの軌跡

前章では、太平洋に散骨されるはずだった7人の遺骨の一部を守り抜いた人々についてご紹介しましたが、
殉国七士廟の建立には、また別の人々の力も関わっていました。

その中心となったのが、林逸郎という弁護士と、三浦兼吉という地元県議の存在です。

林弁護士は、国際弁護士として東京裁判にも深く関わり、
橋本欣五郎陸軍大佐をはじめとする、日本の戦犯とされた人々の弁護を務めた人物でした。

そんな彼は、昭和30年ごろから仕事でたびたび愛知県蒲郡市を訪れており、
その縁があって愛知県議の三浦兼吉さんと親交を深めます。

ある日。林弁護士は、三浦県議にとある話を打ち明けます。

「僕の友人に、三文字弁護士というものがいる。
彼はA級戦犯として処刑された7人の遺骨を命懸けで盗み出し、
現在はとある場所で静かにお祀りしている」

三浦県議は大変驚いたといいます。
当時の日本の人々は、7人の遺骨はアメリカによって全て処理されたと思っていたからです。

「しかし、ご遺族の方々より、
“どこか適当な場所に墓地を求めて、正式に埋葬したい”と相談を受けている」

ご遺族の方々はすでに高齢となっており、
「遠からず夫のもとへ参る日が来る。
その時、遺骨の葬り場所すらなかったのでは申し訳なく、合わせる顔がない」
と、三文字弁護士へ正式な埋葬の実現を願っていたそうです。

しかし当時の日本では、7人の存在は非常に恨まれており、
受け入れてくれる場所はありませんでした。

その後、林弁護士から遺骨奪還の詳細を聞いた三浦県議は、
「この私にお任せいただけませんか」と申し出ます。

実はこの頃、愛知県の三ヶ根山ではドライブウェイ工事が進められており、
まもなく完成を迎えようとしていました。

「この山上の適当なところを選んで、七士のご遺骨を埋葬し、
墓碑を建立したらどうかと思うのです」

三浦県議のこの一言が、
7名の廟が愛知県の三ヶ根山へ建立されるきっかけとなったのです。

それから、昭和32年の3月。
三ヶ根山スカイラインの自動車道路が完成すると、
三浦県議は、三ヶ根山の麓である幡豆町の町長や住民へ受け入れと協力を仰ぎます。
県議の熱意に幡豆町の方々は突き動かされ、依頼された墓地候補地の選定に努めたそうです。

そして林弁護士は、三文字弁護士を連れて三ヶ根山へ来訪。
幡豆町の方々が選定した候補地に満足され、ここから殉国七士廟の建立は本格的に始まります。

廟の設計には、長年、宮内省御用達として知られた東京青山の石材店「石勝」に依頼。
墓石の石材は、林弁護士のふるさとである岡山県にある万成御影石が選ばれ、
東京で加工を施されたのち、三ヶ根様へと運ばれました。

「石勝」の職人たちは三ヶ根山に滞在しながら工事を進め、
わずか1か月で墓碑を完成させました。

 

廟の完成

多くの人々の努力と、奇跡のような縁の積み重ねによって、
殉国七士廟は昭和35年(1960年)8月16日に完成しました。

以下が、建立までの主な記録です。

5月15日:地鎮祭。神式にて執り行われ、50人余りが参列。
6月28日:遺骨の出迎え。午前10時30分東京駅を出発した遺骨は、三文字弁護士、
    市川住職、「石勝」社長夫人、朝日新聞記者らに付き添われながら移送され、
    午後3時41分に蒲郡駅へ到着。
     駅では林弁護士、三浦県議をはじめ、地元の有力者や住民たちが出迎えまし 
    た。
     遺骨は三ヶ根山の観音堂裏に安置され、その夜は徹夜で念仏供養が行われま 
    た。
6月29日:納骨式。井川住職を導師として、仏式にて執り行われる。
7月17日:入魂式。神式にて執り行われる。
8月16日:第1回墓前祭が執り行われる。

墓前祭には、ご遺族として東條夫人、木村夫人、板垣夫人、松井夫人が参列され、
友人代表として、元陸軍大将の荒木貞夫氏も参加されました。

また、当日は数百名に及ぶ一般参拝者も訪れたと記録されています。

 

遺族の葛藤と、建立者たちの願い

ここまで読むと、
「建立まで色々な苦労はあったものの、最終的には順調に進んだのだな」
と感じる方もいれば、
「戦争犯罪人とされた人たちのために、なぜわざわざ墓碑を建てたのだろう」
と疑問を抱く方もいらっしゃるかもしれません。

しかし、当時の遺族の方々と建立に携わった方々には、
世間から向けられる厳しい目と、家族への想いとの間の葛藤、
そして東京裁判や、”戦争犯罪”という評価に対する、彼らなりの考え方や信念があったのです。

なぜ弁護士たちは、命懸けで7人の遺骨を守ろうとしたのか。

そして、A級戦犯とされた人々が国内外から強い批判を受けていた時代に、
なぜ殉国七士廟を建立しようとしたのか。

ここからは、彼らの記録とその想いについて触れていこうと思います。

 

弁護士たちが感じた「日本国」に下された屈辱

第二次世界大戦は、日本がポツダム宣言を受諾したことにより終結しました。

ポツダム宣言には、『戦争犯罪人の処罰』という、戦争を遂行した指導者や軍国主義勢力の排除を求める内容が含まれていたため、
戦後、連合国は多くの日本人を戦争犯罪の容疑で逮捕・拘束し、各地で裁判を行います。

その際、戦争犯罪はA級・B級・C級の三つの区分に分類されました。

B・C級戦犯裁判は国内外の各地で行われ、
約5,700名が裁かれ、そのうち934名に死刑判決が下されています。

そして昭和21年(1946年)5月3日、
A級戦犯として起訴された指導者層を裁くため、極東国際軍事裁判(東京裁判)が開廷されました。

林逸郎弁護士は、ちょうどその頃、大日本弁護士連合会(のちの日弁連)の代表総務理事を務めていた人物でした。

彼は、アメリカ人の弁護士だけで早急に終結をさせられる予定であった東京裁判について、
被告1人につき、1人の主任弁護士と、3人の副弁護士、そして1人のアメリカ人弁護士をつけること」を交渉し続け、なんとか認めさせることに成功。
さらに旧日弁連で、A級戦犯日本人弁護士会を結成しました。

こうして、A級戦犯として起訴された28名を弁護することになった、
林弁護士率いる東京裁判弁護士団ですが、
彼らにとってその弁護活動は非常に過酷なものであり、裁判の進め方にも強い問題意識を抱いていました。

東京裁判は評価が分かれており、現代においても研究が継続しているため、
私はここでそれを断定するつもりはありません。
なのでここでは、史実に基づいた記録と、
廟の建立に携わった弁護士たちが抱いた、強い問題意識を説明しようと思います。

 

そもそも、”罪人に与える罰を法で決める”裁判というものは、存在するすべての法律に従って下されます。
これを『罪刑法定主義』と言い、「すべての罪とそれに対する刑罰は、すべて法律によって定められなければならない」という考え方です。

裏を返せばそれは、「刑罰が存在しない場合、法律上の罪として問うことができない」ということになります。

ここで、戦後の戦犯処理において連合国側が分類した、
3つの犯罪カテゴリを見てみましょう。

B級戦犯の「従来の戦争犯罪」とは、1899年と1907年に定められた「ハーグ陸戦条約」など、すでに国際法において存在していた法律に違反したとされ、処罰を受けました。

しかし、C級の「人道に対する罪」と、A級の「平和に対する罪」というものは、
それまでの国際法には存在しなかった罪の規定でした。
(一方で、C級の「人道に対する罪」については、ニュルンベルク裁判とも関連があると考える学者もいるため、一概に断定はできません)

さらに、国際法には『事後法の禁止』という考え方もあります。
これは「ある行為がなされた当時に犯罪とされていなかった行為を、事後に作られた法律で処罰してはならない」というものです。

つまり、あとから法律を作ったとしても、行為が行われた時点では存在しなかった罪の規定なので、さかのぼって罪とすることはできないということです。

東京裁判では、昭和3年(1928年)1月から、日本が降伏文書に調印した昭和20年(1945年)9月までの約18年間を審理対象としましたが、
C級とA級が罪として規定されたのは、終戦直前の昭和20年8月8日にロンドン会議であり、これは審理対象期間をさかのぼることになります。

このような点について、日本側の弁護士らは、
東京裁判は近代法の原則に反すると考えていました。

そして、裁判の審議においては、日本側の弁護士が提出した証拠資料はほとんどが却下されたのに対し、
連合国側が提出した証拠については、伝聞証拠や裏付けの不十分な証言も採用されました。

何より、戦後はGHQの厳重な情報統制が敷かれると共に、情報・宣伝工作(プロパガンダ)も行われました。
日本軍が戦争中に行った残虐行為や隠蔽されていた事実が暴露されながらも、
連合国軍が行った空襲や捕虜虐待、原爆の投下などについては厳しい検閲のために公開されず、批判も許されませんでした。

そして清瀬一郎氏(東條英機元首相の弁護士)も後年、
当時の法廷報道について「その半分が、正確ではない内容だった」と回想しています。

この不公平さに、林弁護士をはじめとする多くの日本人弁護士だけでなく、
多くのアメリカ人弁護士たちも反論をしました。
インドのパール判事が書いた「被告人全員の無罪」の判決書は、全被告の判決文よりも膨大な量でしたが、それが採用されることはなく、
弁護士たちの声も届くことはありませんでした。

こうして、東京裁判では2名が有期禁錮、16人が終身禁錮、
そして7名が死刑判決を受けたのです。(うち2名は公判中に病死されました)

 

このような経緯から、林弁護士をはじめとする弁護団の多くは、
東京裁判そのものに強い疑問と、屈辱を抱くようになります。

彼らは、この裁判を単に個人の責任を問うものではなく、
日本という国家そのものが裁かれているように感じたのです。

その不公平さへの憤りやもどかしさこそが、
後に7名の遺骨奪還と、殉国七士廟建立へと向かう原動力になったと伝えられています。

 

「顕彰碑を建てるのではない!」 ― 林弁護士の怒号と後世への願い

廟の建立にあたって、三文字弁護士、林弁護士、清瀬弁護士、菅原祐弁護士(荒木貞夫元陸軍大将を担当)は、たった4人で80万円を寄付しました。
しかしそれでも、予算の500万円には足りず、銀行や保険会社も貸さないため、
さらに三文字弁護士と林弁護士でもう60万円を出し合い、なんとか建立の段取りが決まった昭和33年。

三文字弁護士と林弁護士は、7人の遺族の方々へ、
墓所の建立について説明会を行いました。

しかし、それを聞いたご遺族の反応はというと、
「墓など建てたら、石を投げられるかもしれない。どのようになるか……」
と、喜びや安堵ではなく、不安と戸惑いの声がこぼれたのでした。

切望していた主人たちの墓所ですが、いざ建立が決まるとなると、途端に怖く感じてしまう。
それほどまでに、当時のご遺族は墓所建立に強い不安を抱いていたことがうかがえます。

しかしここで、林弁護士がテーブルを叩いて声を上げます。

 

「御主人の顕彰の碑を建てようというのではないのですよ!!」

 

彼らは、不公平な形で多くの日本人が裁かれた東京裁判を、
弁護士として一番近くで見てきた立場でした。

林弁護士たちは、戦後の情報統制によって東京裁判の実情が十分に伝わっていないと感じ、そして、
自らが見聞きした出来事を後世へ伝えなければならないと考えていたのです。

 

彼らは、ただ7名に同情し、その名誉を称えたかったわけではありません。

また、東京裁判で感じた屈辱を世間へ訴えるためだけに、この墓所の建立を進めたわけでもありませんでした。

連合国側の一方的な裁判で主張を封じ込められた、東京裁判を、

言論機関の全てが支配された当時の日本を、そして大東亜戦争とは何であったかを、

この7名の墓の存在を通じて後世へ残し、

日本人に、世界の人々に、歴史を学び、考えてほしいと願ったのです。

 

刻まれた『殉国』のほんとうの意味

殉国七士廟が完成した昭和35年。
林弁護士は、『敗者』という著書を出版されており、そこには7名の墓の存在を書き残しています。

――”その表面には、あえて殉国の二字を用い『殉国七士廟』とした。

その理由は、あの悲惨な敗北に終わった戦争の本質を解明したいからだ。

日本だけが勝手に起こした侵略戦争であるかのごとき逆宣伝をしたのを信じている内外人の目を開き、

戦争の起こったほんとうの原因を究明して、永久平和の確立のために少しでも寄与したいからである。

 

理論も、証拠も一切無視して、ただただ、日本だけを悪いものにしようと努力したのが東京裁判であった。

このような裁判にかかり、戦争犯罪者と名づけられて、死刑の宣告をうけ、

巣鴨や東亜の各地で散って逝った人々をふくめて、

これが戦争の犠牲者でなくてなんであろうか、と強く主張したいのである。”

 

戦後の日本の奮闘

最後に、廟建立以前の日本の出来事についても触れておきたいと思います。

昭和26年9月8日。サンフランシスコ平和条約が締結されると、
林弁護士ら旧日弁連は、戦犯とされた人々の赦免・釈放に向けた活動を開始しました。

同条約第11条には、「刑の赦免、減刑及び仮出獄を行うには、関係連合国の過半数の同意を必要とする」と定められていました。

そこで旧日弁連は『戦犯釈放特別委員会』を設置。委員長となった林弁護士は、副委員長の三文字弁護士とともに、委員会名義で「平和条約第十一条による赦免の勧告に関する意見書」を国内外の関係各所へ提出しました。

こうした活動は、その後全国へ広がった戦犯釈放運動の一つの契機になったとされています。

署名運動では、全国から約4,000万人分の署名が集まったとされ、これを受けて政府は、国内外で服役中の戦犯の赦免・釈放を要請しました。

また国会でも、戦犯の赦免・釈放を求める決議が圧倒的多数で可決されています。
林弁護士らは、連合国各国の大使館や公使館へ足を運び、繰り返し赦免・釈放を訴え、戦犯者の釈放は段階的に進み、昭和31年3月にはA級戦犯全員が、
昭和33年5月にはBC級戦犯全員が赦免・釈放されることとなりました。

 

終わりに

ここでは、東京裁判についてまだまだ勉強中の身である私が、殉国七士廟の存在と歴史を知った今、感じたことを最後に少し書いてみようと思います。

・歴史を知るきっかけのシンボルの一つに
やはり、A級戦犯と聞くと、否定的な声が上がることも否めません。

しかし今回、殉国七士廟の存在と建立までの歴史を学んだ結果、
私自身は、「そういう場所があってもいいのでは」と考えました。

原爆ドームや防空壕跡、江田島の旧海軍兵学校などと同じように、
「そこに生きていた人たちがいた」という歴史を伝え残す、一つのシンボルとして捉えても良いかと思うのです。

原爆ドームが原爆を肯定するものではなく、その惨状を伝え残しているのと同じように、
殉国七士廟もまた、かつて太平洋戦争があり、東京裁判があり、
そしてその結果として処刑された人々がいたことを伝える場所になっているのだと考えています。

その人々をどう評価するかは、それぞれに考え方があるでしょう。
けれどもまずは、
「こういう人たちがいて、こういう歴史があった」という事実を知るきっかけになること。
それだけでも、この場所が果たしている役割は大きいのではないかと思いました。

・学びに終わりはない
歴史を学び、大戦下で繰り広げられた数々の戦いや被害の記録を読んでいると、
私は、どうしても……この7名を、完全に許すことができません。

「この人だって頑張ったのではないか」と思う一方で、
「どうしてこんなことをしたのだろう」と、今も、私はこの二つの感情の間を行き来しています。
私自身が直接何かをされたわけではないのに、不思議なことです。

しかし、殉国七士廟が建立され、そして今日まで大切に保存されてきたことで、
私は今回、自分の中で曖昧だった東京裁判について改めて学び直すことと、
その歴史を後世へ残そうと奔走した多くの人々の存在を知ることもできました。

一つ知ると、さらに知りたくなる。
これは歴史を学ぶたびに生まれる感情であり、私にとってこの趣味を支える大切な原動力でもあります。

今回、殉国七士廟の存在を知る中で、殉国七士奉賛会が寄付を募られていることを知り、私も昨年の夏に微力ながら応援をさせていただきました。

その際、この記事の作成にあたって参考にさせていただいたパンフレットやボールペンをお送りいただくとともに、
令和8年(2026年)4月29日に行われる墓前祭にて、玉串奉奠をさせていただけるご招待状をいただきました。

私に「勉強してみよう」と思うきっかけを与えてくれたこと。
そして、様々な知見や視点を広げてくれたことに感謝し、
今年の昭和の日に行われる墓前祭にて、改めて手を合わせたいと思います。

本当は、「戦犯」とされた人々のその後や、名誉回復をめぐる議論、
また「公務死」をめぐる学者と政府の見解の違いについても触れたいと思っていましたが、
今回は話題が大きく逸れてしまうこと、そして私自身がまだ十分に理解しきれていないことから、いつか別の記事として改めてまとめたいと思います。

その時はまた、よろしくお願いいたします。

 


 

※記事の作成にあたって
本記事の作成にあたり、以下の資料を参考にさせていただきました。

三ヶ根山頂・殉国七士廟 殉国七士の墓 ◎建立の経緯について◎ ― 歸山則之/一般社団法人殉国七士奉賛会(寄付の際に返礼品としていただきました。令和6年7月1日発行)
一般社団法人 殉国七士奉賛会 公式ホームページ
学校が教えてくれない戦争の真実 日本は本当に「悪い国」だったのか ― 丸山元人/ハート出版
戦犯裁判の錯誤 ― モーリス・ハンキー/経営科学出版
日米の教科書 当時の新聞でくらべる太平洋戦争 ― 辰巳出版

なお、本記事は上記資料を参考に執筆したものであり、その内容は筆者・初瀬えま自身の理解と解釈に基づいてまとめたものです。

そのため、資料の著者や関係者の見解をそのまま示すものではなく、
また、本記事の内容や解釈の正確性を保証するものでもありません。
 

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