※本記事は著書『超えても超えても峠あり』の内容のみをもとに執筆しています。
※本記事は、下平肭四先生の著書のページ構成に沿って執筆しているため、
出来事の時系列が前後する箇所があります。
ただし、目次の年表から各項目へ移動した場合は、該当する章へジャンプできるよう設定しています
叔父の会社に入社するも、すぐに飛び出し東京へ
こうして、いきなり中箕輪尋常小学校の教員を辞めた肭四先生でしたが、
その先のことは漠然と考えていたようです。
――自分は教員の足を洗ったからには、事業家になる以外にはない。
それには叔父の製糸工場へ入って、生糸製造業を習おう。
そう考えた先生は、
ちょうど母親の弟(つまり叔父)である下平親彦さんが、駒ヶ根市東伊那字火山で120人余りの工員を抱える製糸工場を経営していたことから、
翌日、洋服を捨てて法被を着て叔父の工場へ向かい、「ぜひ私を使ってください」と頼み込み、叔父の製糸工場で働くことになったのですが……
製糸のことを全く知らない肭四先生は、入社から1か月ほどが経った頃、
叔父から「おまえは他人の飯を食っていないから、わがままがあっていけない」と言われてしまいます。
他人の飯を食う」とは?
ことわざで、「親元を離れ、他人の間に揉まれて実社会の経験を積むこと」という意味です。
おそらく肭四先生は、この時点では実家暮らしで社会経験も十分ではなく、
まだわがままな面がある……叔父さんはそのように感じていたのかもしれません。
しかし肭四先生は、「それなら他人の飯を食います」
(つまり、親元を離れて実社会の経験を積みます)と言い、
今度は叔父の工場まで飛び出してしまったのでした。
先生はそのまま東京の神田へ行くと、
神保町にあった「正則法律簿記学校」という私立学校へ入校し、
昼間は簿記、夜は法律を6ヶ月学び、卒業しました。
簿記と法律を修めると、今度は株式について学びたいと考えます。
そこで肭四先生は、東京・牡蠣殻町にあった株屋で、「㊂(原文ママ)」という株屋の店員となり、新葭町の「菊屋」という旅館に滞在しながら、毎日通勤していたそうです。
無実なのに逮捕!? 久松警察署での大騒動
簿記学校を卒業し、法律も学び終え、
今度は株式を学びながら順調な「他人の飯を食う」日々を過ごしていた肭四先生。
しかしここで、身に覚えのない犯罪の容疑で警察署に連行されてしまいます。
それは、先生が勤めている株屋で、
よりによって先生が200円もの詐欺をしたという容疑でした。
大正5年頃の200円を、現在の価値に換算すると、
約20万円以上、一説には100万円ともされます。
(※生活実感や人件費、年度ごとに大きな差があります)
株屋は、日本橋の久松警察署に届出。
その夜、肭四先生は詐欺の疑いで逮捕されてしまいました。
当然、肭四先生は何のことだかわかりません。罪状は濡れ衣。
しかし翌日には、「長野県生まれの高木肭四という男が、詐欺の疑いで逮捕された」
と書かれた新聞まで出てしまいます。
この新聞を読んで、中村弥六(なかむらやろく)という代議士が、
はるばる長野県高遠町から急いで駆けつけてくれました。
中村弥六とは
高遠藩出身の代議士であり、農林次官(農商務官僚)としても務めた、
日本初の林学者としても知られる有名な方です。
実は肭四先生の父は、中村弥六さんと従兄弟の関係であり、
二人は親戚関係でした。
中村さんは所長に面会し、「この男が詐欺をするはずがない」と訴えましたが、
警察は聞き入れませんでした。
そんな中、新たな情報が入ります。
吉原遊廓でも「高木肭四」という名前の客がいたというのです。
そこで、先生を接待したというおいらんの女性に面会したところ、彼女は肭四先生を見るなり、「こんなやさしい人ではない。もっと背が高く、顔も違う人だった」と証言しました。
警察がその証言をもとに再捜査を進めた結果、犯人は足利市生まれの T・S という別人であることが判明します。
(※著書では実名が記載されていますが、本記事では伏せています。)
実はこの男は、先生が滞在していた旅館・菊屋の同宿人で、先生の名前を騙って株屋から200円を詐取し、吉原でも遊興を重ねていたのでした。
誤認逮捕と分かった署長は、「気の毒したが、今日は出してやるぞ」と言いましたが、
肭四先生は引き下がりません。
「よく調べもせず青年を逮捕しておいて、出してやるとは何事だ。
署長が手をついて謝らなければ出て行かない」
さらに、
「いやしくもこれから将来ある青年の名前を新聞にまで詐欺犯として載せた以上、
誤りだったことも新聞で公表しなければ帰らない」と主張し、
中村さんもこれを後押ししました。
翌日、新聞には「詐欺をしたのはT・Sで、高木肭四は誤りだった」との記事が掲載されます。
それでも先生は、「それなら人力車を持ってこなければ出ない」
と言い、署長が呼んだ人力車に乗って菊屋旅館へ戻ったのでした。
(個人的に、このエピソードで感じたこと)
順調に東京で社会経験を積み始めた肭四先生を襲った、身に覚えのない誤認逮捕。
このエピソードから私が感じたのは、理不尽に屈せず、正当な権利はきちんと主張することの大切さです。
まだ二十代前半で、叔父に言われた「他人の飯を食う」ため東京へ出てきた先生にとって、詐欺犯として新聞に名前を載せられることは、将来を左右しかねない重大な出来事でした。
真犯人が判明した後も、警察は「気の毒だったね、帰っていいよ」という程度の対応でしたが、先生はそこで引き下がりませんでした。
「新聞で誤報を訂正し、正式に謝罪するまで帰らない」
そう主張したのは、自分の名誉と将来を守るためだったのではないかと私は思います。
当時は誤認逮捕に対する救済制度も十分ではなく、警察の捜査ミスが責任を問われることもほとんどありませんでした。
もし先生が何も言わず帰っていたら、「高木肭四が詐欺をした」という汚名だけが残っていたかもしれません。
また、人力車を要求したことも、私は決してわがままだとは思いません。
先生は自分の罪ではなく、他人が名前を騙ったことと警察の誤認逮捕によって連行されたのです。「あなたたちが連れてきたのだから、最後まで責任を持って送り届けてほしい」という意思表示だったのではないでしょうか。
自分の将来を守るためにも、言うべきことはきちんと言い、正当に訴えるべき場面では勇気を持って声を上げる。
その大切さを教えてくれた出来事でした。